「國會奇談 (去る八日の續)」

last updated: 2019-11-24

このページについて

時事新報に掲載された「國會奇談 (去る八日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國會奇談 (去る八日の續) 筑陽生寄稿

英國の國會は古に開けたる者にして數百年來種種の變遷を經たれば其間に議院の勢力熾にして國王も制する能はざりし事もあり又これに反して職に倦み議塲は恰も■(りっしんべん+「頼」)睡諧謔の府と爲りたる事もありて世人はこれに樣樣の稱を加へ其襃貶も亦一ならず試に重なる者を擧げんに

瘋癲議院(Mad parliament) は千二百五十八年四月十日有名なるシモン、ド、モントホルトの招集したる下議院にして此會には民權黨勢力を占め頻りに王權黨を壓して巨魁モントホルトは時の國王ヘンリー三世に向ひ議院の權利を枉げたるを訴へ須らくこれに權力を附與して前の誤を償ふ可しと論じ或は國王は濫りに外國人を登用し且つ之に私して却て本國の人民を輕蔑し毫も其利害を意とせずして專横至らざる所なく或は忠義を盡したる人民を度外視して更に之を責罰したるが如き其失一にして足らず又自身の國に盡力したる功勞少からざりしに陛下は初めに章典を約しながら俄に説を變じて功臣を待するに其禮を以てせざるの過を數へたるに國王は縱へ約束あるにもせよ不遜の言を吐き罪責を犯す者に對しては决して其約を履行するの責任ある可からずと答へたるにモントホルトは是れ國王虚言を吐くなり若し陛下にして國王ならざりせば豈に其虚言を譴めずして止まんやと非常の激論を放ちたれども政府は之を制する能はず時の人この國會を稱して瘋癲議院と爲したり

無慈悲議院(Merciless parliament) 千三百八十三年二月三日リチヤード二世の招集したる國會にして民權黨は諸大臣を攻撃し頻りに其罪過を數へて彈劾したるが爲めに或は職を奪はれ或は追放に處せられ甚しきは死罪の宣告を受けたる者あるを以て無慈悲議院の稱起りしと云ふ

短き議院(Short parliament) 國會は國の法令を議し或は租税の徴收を定むる處なれば其議事の數箇月に渉るは通例なれども英國の歴史中短期限を以て著しきは千三百九十九年三月に集會したる議院にして開會僅かに一日然かも其日に國王リチヤード二世を廢して議院は直ちに解散したり斯て新議院を招集するの必要起るに及び越えて六日ヘンリー四世は更に改撰の手續をも爲さずして再び元の議員を召し之を新議院と名けたり古來國會開會の期限は長短一ならずと雖も爾かも一日を以て解散したる者は唯だ此一事例なりと云ふ

永き議院(Long parliament) 之に反し國會議員に活動の氣象少く何れも姑息に安じて國政の改革を計らざる塲合に於ては年年集會を開くも何等の用事ある可らず千六百六十一年五月八日ウエストミンスターに於て初めて集會を開きたる議院は其一例にして後ち千六百七十九年一月二十四日の解散を受くるまで前後十八年の間英國に撰擧の事なく同一の議院相承けて國事に參與したれども當時の代議士は何れも皆な腐敗したる族にして或は國王より賄賂を受け或は内閣大臣に頤使せられ卑屈因循にして少しも自主の考なく甚しきに至ては佛蘭西政府の内命を受け專ら佛國の政略に左袒して國を賣りたる者もありしと斯くの如き長期限の議院は英國に於て他に聞かざる所なり

無學議院(Unlearned parliament) 千四百四十年に時の大藏大臣フウヒルド侯は議員を撰ぶに當り總て法學を修めたる者若くは法律を業とする者に投票す可からずとの箇條を設け以て撰擧に干渉したり其意の在る所を察するに法律に通じたる者は理窟を述べて施政の妨害を爲すが故ならんと雖も左りとは無學も亦甚だしき次第にして恰も學者は國會議員たる可からずと云ふと五十歩百歩なるのみ依て時人これを評して無學議院となしたるよし

無力議院(Powerless parliament) 國會に黨派別れて互ひに其主義を爭ふに當りては勝敗優劣豫じめ計る可からざるが故に多數を制せんが爲めに反對者を要撃して議院に出席せしめざるの工風も亦一策ならんか千六百四十二年十二月に招集したる議院に於ては王權黨の主領グレー侯は中佐プライド氏に命し二大隊の兵を以て議塲を圍ましめプレスビテリヤン派の議員四十一名を中途に捕縛して一室に幽し又百六十餘名の議員を議塲外に驅逐し中立黨にして因循姑息なる議員を除くの外議塲に入らしめざるより殘る者は僅僅五六十人に過ぎずグレー侯も今は恐るる所なしとて平生政府に敵意を表し若くは國王に迫て其特權を殺ぎたる反對議員の職を奪ひ之に乘じて百事を專决したるは少數黨が暴力を用ひて多數黨を壓倒したる手段にして偖又跡に殘りたる少數黨は何れも唯唯諾諾の徒なれば隨て無力議院の稱出でたるなり

少數議院(Little parliament) 千六百五十三年七月四日クロムウエルの招集したる國會を少數議院と云ふは外ならず初めクロムウエルは一百四十名の招集状を發したるに來り會する者二名に過ぎず斯る少數にては如何ともする能はざれば其年十二月十二日に解散したり

醉倒議院(Drunken parliament) チアールス二世その位に復して後蘇格蘭に國會を開きたるに當時の議員は何れも酒を嗜み衆員時に泥醉して議事を開く能はざるより休會したること一二度ならず或る時の如きは政府の委員ミツヅルトン侯が痛く醉ふて椅子に憑る能はざるより議事を中止したり醉倒議院の名空しからずと云ふ可し

以上は日本の熱心者流が二十三年後の事を想像するに當り胸中の漫■(「畫」の上部+下部はかんにょうの中に「田」)に欺かれて國會を買過ごすことなからしめんが爲め二三の事實を示したるまでなれば尚ほ我國國會の想像に就ては他日重て意見を陳べ時事新報の餘白を假ることあるべし記者足下幸にこれを諒せよ

(完)