「責任内閣望なきに非ず(昨日の續)」

last updated: 2019-11-24

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時事新報に掲載された「責任内閣望なきに非ず(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

責任内閣望なきに非ず(昨日の續) 傲霜生寄稿

幕府大政を返上してより更に歩を進めて全國均一の政を布くこととなり廢藩置縣の一令と共に三百の諸侯は皆その封土を獻じ關門忽ち徹せられて封建の制度ここに全く廢れたり抑も各藩の基礎は徳川氏の小なるものにして其鞏固なる亦素より言を俟たず祿を食むの武士は何れも君の馬前に忠死せんことを冀ひ甚だしきは大義親を滅する抔と稱して父子兄弟の間と雖も主家の爲めとあれば之を敵とするを厭はざると共に君、君たらざるも臣、臣たらざる可らずと規定せし程にて先祖代代因襲の久しき其關係は切る可らず、動かす可らざりし者なれば是が容易に分散すべしとは當時何人も存じ寄らざる所なりしに斷然廢藩の令を下して後は案外何等の紛耘もなく城墟空しく幾坪の地を殘すのみにして之れさへ漸く其痕を失はんとするに至れり今に至りて往事を追想すれば能くも安穩に仕終せたりと唯驚くの外なきのみ是れ我輩が日本人民の氣質に一種不思議の趣ありて變化の意外に巧みなるを證する所以の第三例なり、夫れより明治の政府となりて維新に功勞ある強藩の藩士中には朝に立ちて政權を執る者ありしと雖も人爵の高下を以てすれば彼等は猶ほ公卿諸侯の下風に立たざるを得ずして尊卑の區別顯然たりしが故に各省長官の位地は敢て自ら之を犯さず假令へ實權を其手に掌握するも名は次官と唱へ參議と稱したるものにて太政大臣の位地に三條公を置き外務卿に澤三位卿を任じたる如く其他みな然らざるはなくして是れ則ち尊を尊び親を親しむの主意なりと公言せしに其大主意はいつしか消え果て彼の藩士が自ら代りて總理大臣即ち太政大臣の位地を領するに至りしも世間誰ありて之を怪むものあるを聞かず若しも維新の際に於て外樣の陪臣が太政大臣となるべしと云はば誰か尤もの儀なりとして承服する者あるべけんや一言の挨拶にも及ばざりしことならん然るに今や千年徹骨の感情を拭却すること掌を反すよりも易し是れ我輩が日本人民の氣質に一種不思議の趣ありて變化の意外に巧みなるを證する所以の第四例なり、右は開國以來政治上に關する大變化あれども今や國會開設の期も差迫りて更に第五の變動あらんとするの塲合に際し二十三年以後は責任内閣の組織として一に國會の議論に從ひ内閣を明渡すべきや否やの問題となれり思ふに我國の人民は未だ爲政の經驗もなきことなれば更迭後の始末如何ならんとて容易に手離し難きも亦甚だ尤もの次第なれども其鑑定は開國の折に後の結果を危ぶみ、維新の前に幕府の顛覆を知らず又封建の基礎は長へに持續するものとなし或は陪臣が公卿の上に立つ可らずとなしたるの類には非ざるか但し我輩は内閣の更迭必らず平滑にして後の政治も亦憂ふるに足らずと確證する者に非ざれども先例は第一、第二、第三、第四と引續き意外の好結果を奏したるによりて之を徴すれば第五の塲合も亦絶えて多少の望みなきに非ざるべし既に然りとすれば我輩は徒らに平穩平穩と云はずして寧ろ斷然責任内閣を取らんと欲するものなり勿論これを取る所以は啻に先例に依頼して空望に戀戀するのみに非ず蓋し内閣は人民に向て責任なければ帝室に對して之を負はざる可らず然るに我輩は時事新報の持論と同一致して帝室を政治社會の外に奉じ俗熱の上に仰いで遙に人情世界を支配せられんことを望むものなれば今内閣の人民に向て責任を負はざるが爲め却て帝室を政治部内に累はす樣のこととなりては之を尊王の大主義に照して安んずるを得ず故に今此大主義を以て第五の塲合に於ける疑を决するの標凖となし我國の憲法に責任内閣を定められんことを祈るものなり若し責任内閣にして果して良結果を得るとせんか日本の人民が一種不思議の氣質を具へて世界獨歩の美を專にするの實證いよいよ明にして泰西諸國に向て大に其美を誇るに足るべし我輩の喜んで促す所なり (畢)