「秘密主義」
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時事新報に掲載された「秘密主義」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
石 河 幹 明 草
日本人は氣象を以て勝つの人民にして清廉潔白忠勇節義など稱する徳義上の美質は總て之を身に備へ士人の面目として恥づる所なきは我我の信ずる所にして之を日本士人一種出色の特性と稱するも可なるが如し盖し清廉潔白云云の性質は何れも人生の美徳にして士人が居家處世の道もこの徳に依りて始て美徳を成すものなれば我輩は士人の一身の爲を謀り又一國公共の上より見て今後ますます此特性の維持發達を希望する者なれども又一方より社會の大勢の成行を察すれば却てその維持發達の難きを見る者なり抑も日本の士人が一種出色の特性を有し一身居家の私より社會處世の事に至るまで能くその守る所を失はず徳義上、大に見るべきものあるは何等の原因に由るものなるや士人が固有の性質、天禀に出づるものもあらんなれども我輩の所見を以てすれば之が重なる原因とも云ふべきは古來日本に行はれたる居家處世の關係より來りたるものなるべしと思はるる其次第は日本社會の仕組に於て内に在ては親子夫妻の間柄、外に在ては君臣朋友の關係何れも秘密主義を以て支配されたるものの如し先づ親子の間に於ける第一の教に孝は百行の本なりとて士人が立身の要は總て孝の一義を基とする事なれども扨その孝の方法は如何と云ふに其子に過失ありて父の不興を蒙るか若しくは父の行、其宜を得ずして子の諫を要する等の事あるも父はこの爲に隱し子は父の爲に隱すなどの教ありて父子互に其事を秘密にするを以て道に適ふものとなせり勿論一家親子間の出來事などは却て之を公けにせざるこそ家の面目を保ち團欒の至情を全ふするの利益もあるべけれども其秘密の極は徒らに世間の疑を招て家門に意外の迷惑を受るの例なきにあらず將た君臣の關係も亦同じく秘密主義に外ならずして、其明良際會、君臣互に相得るの間は事甚だ美なるが如しと雖も一旦君寵衰ふるか又は讒言其間に入りて身、退けらるる等の塲合には世間に如何なる汚名を蒙るも進んで訴ふるの路なく退て語るの術なく空しく不平幽鬱に苦しむ者多し其關係の秘密なるが爲めに此種の苦情あるは夫妻朋友等の間に於ても皆然らざるはなし斯る社會に處するの人にして苟も公衆の疑を解て自から明にせんとするには唯その一身を愼み清廉潔白俯仰天地に愧づるなきの志操を養ひ所謂世亂れて忠臣を見るの日を待つの外あらざれば其不平幽鬱は恰も日本士人が徳を修るの學校と爲り以て一種出色の特性を帶び來りしことにして其源は秘密主義の社會に行はれたる結果なりと判定せざるを得ず然るに西洋諸國にては趣を殊にし社會の仕組、總て事を公にするの風にして一人一家の私より國家公共の事までも悉く之を公にし身に屈することあれば直に進で權利義務の問題に訴ふ可きが故に其心事自ら公明正大にして更に忌み憚る所なく故らに退て廉潔を守り以て他人の疑を避くるの要あることなし畢竟西洋の士人中割合に廉潔の氣象に乏しきは社會の仕組に由來するものならんのみ日本社會の仕組は猶ほ大〓〓判の如く疑問の决する所は其人物と平生の所行如何とに在て存すれども西洋の仕組は證據裁判にして其是非曲直は一に證據の有無に决するものの如し今この事實を然りとして扨日本社會今後の成行を察するに士人廉潔の氣風は日に衰退して一種出色の特性も早晩全く其色を失はんとするの勢あり我輩とても從來の氣風にして之を保存し得べくんば長く保存せんこをこそ願はしけれども社會の大勢止めんと欲して止まるべきにあらざれば殺風景ながら今は唯その大勢の趨く所に從て社會の仕組を改め一切萬事之を公けにし以て士人の心事を公明正大ならしむるの外なかる可し例へば一家の事にて云へば親子夫妻の權利義務より財産の制限法等都て民法に由て之を定め又一國政治の事にては國會を開き萬機の政務を公論に决するなど總て社會に公けの氣風を養成すること專一なるべし斯の如くなるときは清廉潔白の氣象に代ふるに公明正大の心事を以てし以て國民の品格を維持することともならん今日、日本にては既に町村會府縣會の開設もあり國會も將に遠からず開けんとして政治上には漸く公けの風を帶るが如くなれども百般の人事は尚ほ未だ然るを得ず社會の大勢は日に下流に趨り清廉潔白の精神既に其本據を失ふて公明正大の氣風未だ體を成さず此間に處するの道頗る難義なりと云ふべし左れば今日の事は唯早く社會の仕組を公にして公明正大の心事を養成し以て士風を維持するの外なかる可し