「日本は海國なり」

last updated: 2019-10-28

このページについて

時事新報に掲載された「日本は海國なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

在ボーストン某生

右は經濟の點に於て我國の位置英國に等しきが故に其經濟も亦有形の物理上自から等しか

らざる可らずとの事を述べたるものなり今又軍備の點に於ても國の位置同くして二ながら

海國たる以上は兵制も亦其趣を共にす可しとの次第を陳述せんに抑も世界萬國の兵制を通

覽するに其仕組一樣ならず或は歩兵を以て長所とする者あり或は騎兵に熟する者あり又は

海軍を以て武威を四海に振ふものありと雖ども之を要するに軍備の種類は海陸の二樣に過

ぎず大陸に國して四隣他と相接するの國に於ては退て外敵の侵入を防ぐも又自から進で隣

國を襲ふもョむ所は陸軍の力に依らざるはなし故に其勢自から陸軍を以て軍備の第一線と

なさゞるを得ず歐洲大陸に限りて全國兵の制あるも盖し此理に依るものならん固より日耳

曼の如き露西亞の如き尚武の國に在ては陸軍の外に相應の海軍を備へざるにあらずと雖ど

も其海軍は唯陸軍を補助し兼て又通商の道を保護する爲めのものにして獨り之に依て國運

の成敗を决するの目的にあらざるが故に之を軍備の第二線と云ふ、左れば今日日耳曼の兵

制は天下に冠たりと云ふと雖ども其冠たる所以は第一線の陸軍に在りて海軍に在らざるは

世人の能く知る所なり之に反して英國の如き嶋國に在ては地形上攻守共に海軍の力に藉り

先づ海軍を以て充分の働を試み海軍敗れて後ち始て陸軍の力に依るの覺悟なれば海軍は第

一線にして陸軍は第二線に位し以て海國たるの兵制を立る者なりと云ふべし彼のシエクス

ピアの語に我英國は恰も天險の銀波を以て遶したる寶玉の如し何人にても此寶玉を覬覦す

る者は先づ其銀波を押領せざるべからずとあるも盖し此意味にして英國の海軍は強大にし

て恰も銀波の天險を專有するの姿なるが故に此國土に侵入せんとする者は先づ其天險を侵

し其海軍と戰ひ之を敗て後ち始めて志を逞うす可し今日の英人も亦こゝに見る所あるか

度々議院に提出したる彼の英海峽隧道開穿の議も毎々廢案となりて遽に行はるべき模樣な

し盖し我輩外人の目を以て視る時は如何にも頑固の所爲にて英國人は文明の交通を嫌ふ者

の如くに見ゆれども若しも一度び此隧道を開て汽車を通ずる時は即ち自から銀波の天險を

破壞して海國たるの天幸を失ひ直に歐洲の大陸佛國と境を接して恰も盗賊に鍵を貸すの姿

なるが故に隨て自國の軍備をも一變し從來藉て以て國威を振ひたる第一線の海軍は忽ち無

用の長物となり却て今日其第二線の地位にある所の陸軍を擴張して以て之を其第一線に移

さゞるべからざるの形勢に至るやも圖る可らずとの考よりして容易に議の行はれざること

ならん英國の軍略は敵を近海に防ぎ止めて上陸を許さゞるに在り之に反して歐洲大陸國の

軍備は第一線を陸軍となすが故に陸戰に於ては迚も英兵抔の比敵すべきにあらずと雖も海

軍に至ては大陸國は恰も自家の第二線を以て英の第一線に對するが故に海上の利は常に英

國に歸せざるを得ず在昔トラフアラルガル埃及奈兒の戰爭を視ても其言の過らざるを知る

べし拿破崙第一世の如き全歐の大陸をば蹂躙したれども彈丸黒子の英國に侵入するを得ず

海國の天險决して忽にすべからざるなり英國の本體右の次第なりとすれば我日本は東洋の

英國なるが故に其兵制にも亦海軍を以て第一線となし陸軍は暫く之を第二線に置かざる可

らざるや明なり今日我陸軍は專ら日耳曼の制に傚ふよし四隣敵に接する大陸國の備に要用

なる其兵制を以て直に我海軍に用うるとは其得失少しく疑ふ所なきを得ざれども其得失論

は之を擱き我國全體の兵制に於て戰備の第一線を陸軍にして海國主要の海軍をば却て第二

線に置くが如き姿あるは我輩の常に感服せざる所なり我陸軍甚だ強大なるに非ずと雖も日

本國の固有に古來士族なる者ありて現に軍役の勞に堪ふる者五十萬人に下らず而して此士

族なる者は祖先傳來唯武勇一偏の者なれば一朝事あるの日には暫らく之を以て常備兵の不

足を補ひ假令へ必然の勝算なきも尚ほ容易に敗を取らざる程の覺悟なきにあらざれとも海

戰に至ては啻に勝算なきのみならず迚も敵艦と鋒を交ゆるさへ出來難きことならん軍艦の

總數僅々三十餘艘にして總噸數五萬噸に上らず或は二千五百噸の積數にして其蒸氣力僅に

八百馬力のものあり或は木製鐵骨今日の軍用に適せざるものも少なからずして眞に軍艦の

名を下だす可きは僅に數艘に過ぎずと云ふ海國の名に對して聊か赤面の情なきを得ず、或

は我國の資力は迚も攻防の備に充分を望む可らざるものなれば寧ろ一切軍備を廢し我獨立

の體面を歐洲諸大國に委任して我れは中立國の位地に立つ可し貧國の腕力ョむに足らずと

云はゞ是れ亦一説なれども已に幾分か自國の兵力に依ョして獨立を維持せんと欲する以上

は自國相應の軍備は今日の形勢に於て缺くべからざることなり已に其軍備を缺くべからざ

るものとせば國の地形位置に依て兵制をも組織せざる可らず我國は太平洋の一隅に孤立す

る嶋國なるが故に内地より敵の侵入する道なく其來たるや必ず海よりせざるを得ず、海よ

り來る敵を難なく内地に上陸せしめ陸軍を以て之と戰はんとするは海國の戰略上にある可

らざることにして嶋國の天險を自棄する者と云ふべし海軍の擴張に就ても資金不足の異議

あらんなれども事に前後緩急あり今日の政費中減ず可きもの少なしとせず啻に尋常の政費

のみ節す可きにあらず陸軍の所費を海軍に讓るも亦可なり前にも云へる如く陸軍は國防の

第二線にして其主用は内國の騒亂を制するに在るのみ而して内國民の亂は竹槍席旗にあら

ざれば無智無謀の書生隊に過ぎず此の輩を鎭壓するに何ぞ強大なる陸軍を要せんや假令へ

或は一時英雄の起りて内亂を催ほすことあるも其内亂の結果は治者の交代政府の變革等に

止まりて毫も憂ふるに足らず固より外敵の侵入と同日の論にあらざるなり去れば今の陸軍

を半減し又は四分一に減じ其費用を移して悉く之を海軍に用ゐ全國の資力を擧て唯此一方

に集め以て海國たるの面目を持張し東洋に一の英國を始創すべきものなり(完)