「東洋問題」

last updated: 2019-10-28

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時事新報に掲載された「東洋問題」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

前日來述べたる如く露國は朝鮮の國境慶興府に居留地を設け陸路往來の便を得たると同時

にサイベリヤの鐵道落成して露京と浦鹽斯コとの連絡通ずるに至らば東洋に對する兵略上

の運動必ず活溌なるべしとの説あれども本論の初にも記したる通り縦へ鐵道全く通じたり

とて幾千幾萬の兵を無人荒凉の野に屯せしむる能はざるは明白なるが故に其邊の掛念は先

づ以て無用なる可し或は露は朝鮮を席捲して之を奪ふの考なきを期せざれども露にして

彌々その形迹を顯はすに於ては支那は斷然朝鮮に與して以て中途より露軍の行路を斷つこ

と容易なる可し即ち鐵道切斷の一策にして露國の危險これより大なるなければ其政略は暫

く武斷に出るを廢して殖民開拓、人を移し地を耕し戸口繁殖、土着の兵を利用し得るの時

に至り始めて果斷の策に訴ふるも時機遲しと云ふ可らず是に於てサイベリヤに囚徒を流す

の法を改め只管壯丁を募りて移住開墾を奬勵し浦鹽斯コの港を治めトムスク府の大學を設

け近來露國政府のサイベリヤ殖民に汲々たる其證例は一にして足らざるなり露國朝鮮陸路

通商條約の如きも條を逐て論する時は朝鮮の不利u大なりと雖も利不利の談は扨置き直に

露の保護國たらざりしこそ僥倖なれと云ふ可きのみ他年の事は豫め卜す可らざれども露國

現在の政策は正に自國の開拓に忙はしくして他國の土地を想ふに遑あらざる折なれば謂ゆ

る東洋問題の破裂の時機も尚未だ眼前咫尺に迫らずして多少の猶餘ありと知るべし

右の想像にして遠く實際に外るゝことなからんには我輩は露國の貿易に關して一言以て世

人の注意を乞はざる可らず昨二十年中浦鹽斯コの貿易表を視るに輸入總計五百七十四萬一

千四百六十七ルーブルにして之を各國に分つに

露國 二、〇一六、二二七ルーブル 獨逸 一、三一九、四四五ルーブル

英國   四八六、五七七     米國   四四六、五四一

支那   五八六、六三二     諸外國   三九、一四四

日本   八四六、九〇一     總計 五、七四一、四六七

又貨物輸入の汽船分けは

露國商船     七、三四一噸 一、七二五、八八二ルーブル

諸外國商船   二三、八二四噸 二、二二九、九〇四

日本郵船高千穂丸 八、一三二噸 一、七八五、六八一

合計      三九、二七〇噸 五、七四一、四六七

我日本は浦鹽斯コと一葦対岸の國にして朝鮮を除けば距離最も近きのみならず長崎は恰も

其咽喉を爲すが故に來往の船舶概ねこれに寄港せざるなくして日本商人は浦鹽斯コの貿易

を專有し得るの位地に立ちながら商業の多分は獨逸人に左右せられ毎年四月より十一月ま

での日本定期の航路さへも半以上は外國商人の貨物を乘せ其運賃に依て日本貨物の不足を

補ふ次第なれども其實は日本より輸出す可き貨物なきに非ず今日の實際に於て外國人は常

に我市塲に來り露國向の貨物を買出して之を日本の船に托し浦鹽斯コに到れば躬から販賣

交易して巨大の利を占むれども日本人は唯運搬の勞を取るのみにして恰も他人の爲めに嫁

衣を製するが如きは我輩の平生遺憾とする所なり况して今後サイベリヤの鐵道開けて内地

の殖民盛なるに於ては西洋人は倍々この機に乘じて利を射るに反對し日本人は因循不斷、

糧を敵に假して遂に自ら飢渇するの笑を招くなしと云ふ可らず朝鮮の貿易と雖も亦然り今

日幸に先鞭の蔭を以て朝鮮貿易の大半を占むると雖も近來支那人の勢力盛にして我商權を

奪はれんとする折柄露國も陸路通商條約に基き内地より外國貿易の販路を弘めたらば八分

乃至三割の關税を課せらるゝ海港貿易は五分税の陸路貿易に制せられ隨て日本人か元山釜

山に於て營む所の商賣も浦鹽斯コを經て慶興にその溝路を轉するなしと云ふ可らず我輩の

窃に憂る所なり

世人の東洋問題を説くものは往々にして露國に野心あればサイベリヤ鐵道の落成以後は兵

略上必ず活溌の運動あることならんと想像すれども我輩は兵略上に於て敢て之を恐れず唯

商略上より日本人の因循姑息にして永遠、人後に瞠若たらんことを掛念するのみ干戈殺伐

の事は言はず平和の戰爭は露國朝鮮の間に起りて漸く大問題に至らんとする今日なれば我

輩は重て朝鮮獨立の運命に關する鄙見を陳べて識者に質す所ある可し(完)