「風俗改良」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「風俗改良」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

風俗改良

改良の談一たび出でてより世の文明に熱する輩は在來の一事一物を見るに付け恰も其舊弊を厭ふの情に堪へざるものの如く先を爭ひて思を想像界に馳せ種種樣樣に工風を替へて頻に趣向を捏造し曰く既往現今の政治は文明の政道に反せり是れより云云の原則に從ひて其方針を一定すべし曰く我國の商賣は規模狹く秩序整はずして其運動甚だ活溌ならず西洋諸國の體裁に則るべし、農工の機械改めざる可らず、飮食衣服見るに堪へずとて滿腔の妙案湧くが如く可となく不可となく改良の議論一時に出現して遂には社會の風俗にまでも亦その鋒を差向くる者あるに至れり蓋し風俗とは人心の運動に外ならざれば之を改良せんとするは取りも直さず道徳の標準を高めんとするの意味にして其事固より非難すべきに非ずと雖も改良の要點として唱ふる所を聞くに小説の卑猥なるは徒らに流俗を濁らしむるものなり、芝居の醜體慘状は既に其度に過ぎて世の風教を害するに足るものなり、歌舞音曲の鄭衛に近きは優美の心を養ふ所以にあらざれば此等の邊に向て改良を加ふるこそ最大一の急要なれ云云とて學者輩も往往相率ゐて爲めに奔走周旋の勞を吝まざるものの如し其勞は誠に苦勞なれども勞して果して功ある可きや我輩は容易に然りと答ふるを得ざる者なり今其次第を述べんに本來事物の價を評定して是れは高尚なり其れは下卑なりとするは其事其物の高下に由ると云はんよりは寧ろ之を取扱ふ人物の品格によりて定まるものにして例へば樗蒲は牧〓奴の戯にして雲助輩の持前に屬し百人一首の歌骨牌遊は紳士貴女の本色なりとて世間に之を認むるもの多きが故に歌骨牌の本質は既に尊く樗蒲の品格は〓〓より卑きが如くなれども今若し樗蒲を弄する者も貴人なれば之を見る者も貴人にして歌骨牌は都て民間下郎輩の樂むものとせば如何、尊卑の區別忽ち轉倒すべきは必然にして之を要するに樗蒲を繞るの空氣と歌骨牌を圍むの空氣と互に其清濁雅俗を異にするの故にして即ち單にその外圍の事情如何に由ることと知るべし左れば樗蒲の卑賤なるを惡んで之を歌骨牌に換ふるは事頗ぶる容易なる可けれども雲助を變して貴人となすは至難のことにして苟も其品格に變更なき限りは樗蒲と歌骨牌と更に擇む所ある可らず故に我國の芝居、歌舞、音曲等都ての演藝は未だ高尚優美ならずして往往少年子女の品行上にも影響し世教に妨害を爲す者もある可けれども其害の生ずる所は技藝其物と云はんよりも寧ろ其邊に充滿する空氣即ち技藝に關係する人物習慣これを見物する客の人品行状如何に在るものの如し苟も其人の品格にして高尚に進むときは技藝も亦共に誘はれて漸く地位を高め樗蒲變じて歌骨牌と爲る可きのみ故に世の徳教家にして風俗を改良し道徳の標準を高めんとするの志あらば唯須らく實踐して自身の品行を正くし其徳心を發達せしめて以て社會に實例を示し次第に一般の空氣を高尚ならしむべし斯て漸を追ひ其歩を進むるときは淫褻卑猥の言句も殺伐殘酷の所作もいつしか徐々に其跡を收め改良の實ここに始めて擧るを得べしと雖も若しも然らずして徒に他の物的に向て不滿を鳴し俄に新奇の趣向に思を凝らせばとて何とて能く其目的を達すべけんや凡そ事に本末あり其本を務めずして末に走るものは常に失敗に陷るを免れず今の風俗の不完全なる其本は唯人心の程度低く私徳品行の堅からざるが故にして身外物的の如何の如きは抑も末なりと云ふべし我輩は改良論者の本末を顧みずして無用の計畫に熱中する其熱心を一轉して飜て自家の道徳を省みるに鋭敏ならんことを望むものなり改良の論は易くして改良の實は易からず論者は果して自から省みて自家の私に改良す可きものあるやなきや