「政談一時間の始末」
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本文
政談一時間の始末
政談の本色は私利私欲を圖るに非ずして公共の爲めに政權の得失を論議するものなれば事
素より公正不偏なるべき筈なれども其所謂公共の利益を圖りて見事に議論を實行するに至
るときは直ちに自身の功名手柄となり人心を収め與望を博するに足るべくして即ち人情の
最も投じ易き所なれば是に於てか政談の本色は一變して功名手柄の色を帶び之を欲するの
情ますます熾なるに從ひ徃々その本を忘れて末に走り自説を主張するの熱心はいよいよ其
熱度を高うして遂に互に相爭ふに至るもの之を稱して政熱とは云ふ政熱の發して形に顯は
るゝや千種百樣一概に非難す可らずと雖も多くは事の極端に走りて其弊に陥るを免れ難き
は亦是れ人事不如意の一端として見る可きのみ顧ふに日本にて政論の發達したるは最近十
數年の間にありて日甚だ淺きが故に其品格未だ高尚ならざると共に政熱の度は割合に高く
別して近來各地方にては其氣焔中々熾にして或は官民の不調和に基くといふもあり黨派の
軋轢に由るといふもあれども其熱の沸騰は則ち一にして殊更に怪むべきものに非ず左れば
此事たるや獨り我國のみに限らずして西洋に於ても事例を見ること少なからず即ち爰に掲
出したるは獨逸にて刊行したる某雜誌中の漫畫にして一時間を十分宛に別ち其間に政論家
が次第次第に氣色を變ずる其順序を描きたるものにて最初は互に莞爾として相迎へ至て和
熟の體なれども二十分より三十分と經過すれば追々議論に熱度を加へ内に蓄ふるの憤怒は
漸く外に顯はれて目を見張り腕を扼し果は掴合とまでに推移りて最後に至れば豫て期した
る私欲公益も共に一轉地に塗れて雙方共に俗に所謂虻蜂取らずの奇觀を呈するに終ること
なり政熱既に此邊に達するときは當局者も始めて思當るべき頃合なれども唯事の既に六蒲
十菊に屬するを如何せんや竊に我國の前途を察するに明二十三年には國會を開設して國の
法律を議定するにも全國代議士の評議に任せ下りて府縣郡市町村までも一切萬事會議の世
の中となることなれば之と共に黨派の形も判然として現はれ卵化して鶏となれば政論の
聲々中々に喧しく其多事にして紛擾に流るゝこと今より想像に餘りありと云ふべし是れも
時勢の變遷なれば容易に留めて駐むべきに非ざれども一歩を進めて其原因に遡り政熱沸騰
の茲に到る其所以を尋ぬれば畢竟するに世の政論家が自尊自重の大義を知らざるに坐すと
云ふて可ならんか葢し自ら其品格を維持せんと欲するものは謹んで他を傷くることを爲ざ
る理の順序なれども徃々然る能はずして議論の極、罵詈讒謗に亘ること多く同時に自身の
面目を抛棄して心中最早や前後を顧るの餘地を殘さゞることなれば扨こそ漫畫に見ゆる樣
の始末となりて波瀾の動搖徒に泡沫となるに過ぎざるものなり右の次第なるを以て政論家
その人の私利私欲の成敗は兎も角も之によりて民利國益を犠牲にするとありては只に眼を
過ぐるの雲煙とのみ看過す可きにも非されば激論も適度に其熱を収め互に自尊自重の大義
を心に念して將來に戒むる所あらんと我輩の切に望む所なり