「大人拜崇は已むの日ある可し」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「大人拜崇は已むの日ある可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

大人拜崇は已むの日ある可し

獨逸の老相ビスマルクが歐洲和戰の全權を採るに至りし其由來を尋ぬるに今を距る二十八

年以前に丁抹と戰爭してシレスヴヰツグホルスタインの二州を併せ其後六年にしてサドワ

の役に墺地利を敗り北獨逸諸州の同盟を作り後ち又四年にして佛蘭西に勝ちアルサス、ロ

ーレーンを奪ひて獨逸帝國を建て立國の基礎爰に初て固うして爾來頻に兵力を養ひ列國の

間に立て國勢の平均を握りたる者なり本欄の挿畫は老相の玩具と稱して西洋新聞が其權力

の大なるを示す爲めに描きたる漫畫なれども歐洲列國の關係を視るに於ては一目判然たり

と云ふべし甲の圖はビ翁欣然として笑を呈し右手を以て玩具の滑車を操る處にして佛獨露

墺の四個の人形は平和の服を着け佛墺二人は左右の兩端に面して各々相手なく獨露二人は

相對して相和し風針の方位和に向て穩なり即ち獨露相結ぶ時は歐洲の平和を維持すること

容易なるの模樣を寫したる者なり然るに翁が凝眸緘口して滑車の絲を逆に一轉するときは

彼の人形は反對の相を現はし平服俄に變じて戎裝の武人と爲り佛獨二人は劔を以て互に相

接し露の短銃將さに發せんとして墺の白刃その銃口に近し和戰の機變唯一老翁の指端に存

するものにして其一〓(ぴん)一笑以て全歐洲の人を喜憂せしむるの事情寫し得て妙なり

と云ふ可し

今の歐洲人かビスマルクを敬畏すること非常にして擧手投足の勞と雖も尚ほ之に注目する

は大人拜崇の風習未だ全く已まざるの明證なれども將來文明の進歩と與に人々己れを保ち

己れを重んずるの氣風を増すに至る時は功名虚聲を以て世を瞞着するの手段行はれずして

英雄豪傑の權力も俄然地に落つることなしと云ふ可らず近來西洋新聞の報ずる所を見るに

本年早々ビスマルクは職を辭して閑散に就くならんとの風聞あり容易に信すべきに非ざれ

ども抑も既に斯る風聞の起りたるは老相の權勢も昔日の如くならざる所以にして大人拜崇

の風習も亦將に衰へんとする證左に非ずや或は今日は然らずとしても其風習は翁が殘餘の

生命と與に歐洲社會に終を告ることある可しサドワの夜打ちセダンの朝掛け、彈烟硝雨の

間に馳〓(へい、馬偏に聘のつくり)したる武勲戰功も二十年後の今と爲りては再び其用

を爲す可らず大人拜崇の氣風の已むは人々自保の念の次第に發したる結果なれば我輩は文

明進歩の一端として之を待つ者なり