「酒茶烟草珈琲の功能」
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時事新報に掲載された「酒茶烟草珈琲の功能」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
石河幹明譯
滔々たる我等生民は生活の眞理の十分一をも知らずして時々刻々これを犯さゞるはなし試
みに問はん家屋に住ひ衣服を着することは生理に適へるや否や、睡眠は何時間を以て適當
とするや、晝起き夜寢るは正當なるや、饑寒に迫られて勞働するは生理上に不可なきや否
や、斯の如きの類は其他にも猶ほ甚だ少なからずして要するに我々人間は今の世界に於て
發見されたる僅々數個條の天然の法則すらも猶ほ之を守ること能はざるものなり即ち人間
生活の必要は人をして法則に從ふを許さずして其結果は終に此社會に幾多の疾病を生ずる
の勢に立至りたるものなり勞働者と坐業者と兩社會の有樣は即ち二個相對の例にして前者
は腦力に割合ひて筋力の方を消耗し後者は全く之に反し兩者共に其食物と消耗回復との間
に存する所の關係を破壞して兩者ともに同樣の食物を食ひ各その身體の一部分を十分に養
はんとして却て其他の部分の爲めに無用の物を過食せざるはなし然るに勞働者の方には斯
る不養生も存外に害を及さゞるの理由二つあり即ち此輩は平生其筋力のみを使用するとは
云へ、其間に亦幾分か腦力を勞せざるを得ず而して其結果たるや~經組織の如き身體の一
小部分に物料の過剰を生ずるに過ぎざれば種々の機能に由り之を排泄して容易に不平均を
償ふことを得べしと雖も坐業の人に於ては則ち然らず腦を使用するには毫も筋力を働かし
むるの必用なくして其腦は他の筋肉の如く身體中の大部分を占めざるが故に腦を勞して十
分に之を補養せんとするには大に食はざるを得ず然るに其大食は身體全部の養に比例を失
ふものにして他の働かざる部分の爲めには恰も過食の罪を犯すが如し之を要するに身體の
閑却したる部分を適宜に養はんとすれば腦の消耗を補ふに足らず、腦の補養を十分ならし
めんとすれば過食せざるを得ず既に過食すれば胃の力は之を消化するに足らずして忽ち不
消化病を發し假令へ幸に消化するも肝臓はこの過重に堪へずして又忽ち膽液病と爲る可し
抑も坐業者が(自ら其食慾を節するにあらざれば)常に多量の食物を食ふこと勞働者の如
くにして常に不消化云々の病に罹らざるもの稀なるは明白の事實なれども其中幸にして無
難なるは既に一たび之を思へたる者か又は日常茶、珈琲、烟草、酒等所謂parntripties、假
りに防消品と譯す或は其効能より視れば興奮強壯品と譯すも〓可なり)なる者を用ひて自
然に〓の消耗を防ぎ、爲めに其缺を補ふ可き食量を減し得たる者に多し飮食店の主人に聞
き又は其他の經驗に依るに坐業者の食量决して勞働者に劣らざるの例證は甚だ乏しからず
然るに坐業者は斯く大食しながら猶ほ且つ~經組織の饑渇に苦しみ常に所勞不快の沙汰多
きは何ぞや前記の理由に在らざるはなし然らば則ち如何にして此情態を改めて患害を減す
ることを得べきやと云ふに坐業者の習慣を全く改良するが如きは最良の方策にして勉強の
時間を今日の一半を適當なる運動の時間の供するときは難を匡濟するに足るべしと雖も斯
の如き改良策は一塲の想像談に過ぎずして實際は寸効なきこと勿論なるが故に世間にては
往々食物調理の方法を改良せんと企つる者あり幾多の研究と經驗とに由りて既に其成績の
見るべきもの少なからず又近來は人工を以て胃の消化を助るの工風も出でたれども之は唯
纔かに一歩を進めたるものに過ぎざるのみ若しも眞實その目的を達せんとするには既に
我々の手中に在る所の物質にして然かも我々は知らず識らずの間、既に之を發明使用した
る其物質を利用するの一法あるのみ即ち其物質の利用とは所謂防消品を用る事にして就中
最も普通なるものは酒、茶、珈琲、烟草等是れなり盖し是等の諸品は何れも多少有害の質
を含み殊に始めて之を用ふる時に於て然るものなれども暫く慣用するときは其害は更に身
體に感ずる事なくして唯その防消の効を見るに至る可し始めて煙草を喫する者は之が爲め
に惡心を催して大に苦むことありと雖も次第に慣るゝときは不快の感覺全く去るに至るを
常とす其他の諸品も皆同樣にして唯人々之に慣るゝの難易と其物の撰擇とに至りて異なる
のみ例へば珈琲は好めども茶を喫する能はざるものあり又珈琲は其身に害あれども煙草は
却てuを與ふる者もあれば此邊の熟慮は最も必要なることならん而して今日生理の實際に
於て是等の品物は其の効用、互に異なれども身體、組織の分離消耗を防制するの一段に至
ては何れも同樣の効力あるは疑ふ可らず然かも其効力は身體中の使用を要する部分に著し
くして之を喩へば油の諸機械に於けるが如き働をなす其證據は數ふるに遑あらず又人々の
自から知る所なり然るに世間にては尚ほ此有効品の利用に反對し痛く攻撃を加へて人間に
大害ありとまで明言する者あるこそ不審なれ(以下次號)