「酒茶煙草珈琲の功能」

last updated: 2019-10-28

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時事新報に掲載された「酒茶煙草珈琲の功能」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

石河幹明 譯

茶珈琲は昔に引替へ今日は餘ほど非難を免かれたれども酒と煙草とに至りては今猶ほ物議

甚しく然かも其説たるや最も之れを嗜好する其人の中より出づるを常とせり今其説に對し

一々辨駁するは徒らに冗長に渉るの恐あるが故に之を止むべしと雖も苟も人間は將來猶ほ

幸bフ域に進歩するの運命ある者なりと信ずる所の人ならんには我々は其人に向ひ何故に

人間は斯る物品を發明して然かも一般に之を用ふる樣になりたるや、防消の效を外にして

は他能なき茶、珈琲、煙草等の植物は何故に此世に生じたるやの質問を試みんと欲する者

なり若しも世人の知る如く此物品の流行は其範圍甚だ廣大にして其嗜好の度も非常なるこ

と事實に掩ふ可らずとするときは酒煙草等の流行と共に人間生命の平均大に揄チしたるの

事實は抑も如何なる次第なるや茲に聊か歴史上の概略を述べんに茶及び珈琲の始めて歐洲

に輸入されたるは凡そ二百年前の事なりしが今は年々數百萬噸の分量を消費するの勢とは

なれり又煙草はコロムブスが亞米利加發見のとき同時に之を發見したるものにて夫れより

百年足らずの間は左迄評判もなかりしが其後に至り非常の流行を催し其行はるゝ區域の廣

くして傳播の時の速なるは他支那の迚も企て及ぶ所にあらずして地球上人迹の到る處は苟

も之を嗜まざるものはなく年々世界にて煙草の消費額は一人に付き五片づゝの割合なりと

云ふ以て其流行の大なるを知るべし又酒も之に同じく世界一般これを好んで使用せざる處

あるを聞かず斯く全世界の人類が申合せたるが如く一樣に是等の物品に向て嗜好する所を

見れば之には何か確かなる生理學上の理由の存するものあらんと判斷せざるを得ず人或は

此種の嗜好を以て單に愉快を取るが爲めなりと云ふ者あり然れども茶、珈琲の二物の嗜好

の如きは唯に快樂の目的に出づるものとは云ふべからずして特に煙草の如きに至ては始め

て之を用ふる人をして苦ましむること少なからず阿片を察して愉快の感〓〓は皆人の知る

所なれども世人は之を用ひずして却て〓辛を感ずる所の煙草を用ふるは何ぞや决して單に

快〓を取るの目的に出づるにあらざるを知るべし即ち其効能は人生生活の必要に應ずるも

のにして人の之を需用する所以のものは其力に依て以て身體中の消耗を防ぎ少量の食物を

以て長き勞働に堪へしめんとするが爲めなりとの説明を以て十分なる可し而して其功能利

uは今日まで何人も之を詳説したるものこそあらざれども冥々の中には既に非常の勢力を

逞ふし其實の功uを枚擧すれば驚く可きもの多し彼の世間にて茶、珈琲以下の需用の爲め

米穀等日常食物の十分の一を減ずる事を得たりと云ふが如きは利uの一小部分に過ぎざる

のみ抑も人として困難疲勞を免れざる以上は防消品の助を要すべきこと勿論にして兵士、

水夫、探求者、坐業者、勞働者等何れも其助を此品に求めざるを得ずモールスコツト氏は

之に身體組織の貯蓄銀行の名稱を附し其他生理學者の説も之を以て人生に一の幸福を添ふ

る物なりとするの點に於ては殆んど一致するものゝ如し候請ふ之より所謂防消品なるも

のゝ適當なる用法を勤ることあれども此品即ち食物なるにはあらざるなり勿論過度に之を

用ふるときは有害の結果あるに相違なけれども是れは萬物同一樣の害にして獨り此品に限

るにあらず且つその過度といふも彼是相對の語たることを記臆せざるべからず甲には適當

なるものも乙には過度なることもあり又その中の一種の過度は他種の過度よりも害を爲す

こと非常に大なるもあらん同効の諸品中最も害を及ぼす可きものは酒類にして其他の物に

至ては勿論これと同日の談に在らざれども順序を云へば酒の次に茶、次に煙草、而して其

次は珈琲なるべし盖し世間にては唯、酒の害の恐る可きを説くもの甚だ多しと雖も其一方

の説を以て彼の適當に酒を用ふるより生ずる所の有uなる結果を抹殺すべきにあらず其結

果は早く既に醫學家の認むる所にして之を用ふるにあらざれば以て生命を救ふ能はざるの

塲合は甚た少なしとせず千八百六十七年に當りフランシス スキー氏の計算したる所に據

るに過ぐる四十年間に倫敦の各病院にて酒精消費の量は四倍の揄チを見たりと云ふ或る生

理學者の言に總て防消品なる者は多少體中に消費さるゝものなれば矢張り眞實の食物なり

と云ふ者あり其は兎も角も普通の觀察に依りて飮酒家は小食なりと云ふ其事實の一例とも

云ふ可きは曾て獨逸に於て饑饉の際儉約の爲め麥酒の買入を見合せたる家ありしに幾ばく

ならずして麺包の消費俄に揩オて一個月後に計算すれば丁度その省略したる麥酒の二倍を

買ふ可き錢を麺包に損したる割合なりしと云ふ又凡そ酒精は其濃厚なるものを大量に用ふ

る時は非常の有害物となるが故に之を稀薄にしても同樣有害なりと云ふものあれども鹽の

例を見てその然らざるを證すべし鹽は日常の食膳に缺く可らざる有効良性のものなれども

之を濃強にするときは良性變じて非常の毒物と爲るは人の知る所なり(以下次號)