「酒茶煙草珈琲の功能」
このページについて
時事新報に掲載された「酒茶煙草珈琲の功能」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
石河幹明譯
又世の所謂改良家なる者の説に凡そ酒は其初め適宜に之を用ふるも、終に過度に傾くもの
なりといふものあれども經驗に依るに適宜に酒を用ひたる人にして畢生の中、終に亂用に
陷りたるものは其數極めて少なしと云へり盖し飮酒の結果は其性質二樣の別あり即ち一は
喜んで酒を飮むものにして多々uすuす佳境に入り醉の極度を以て樂の極度となす者なれ
ども幸に此種の酒客は其數甚だ少なくして世間多數の人には飮酒の結果甚だ佳ならずして
既に醉に埀んとする時は忽ち頭痛眩暈等の不快を感じ自から用心して酩酊を避るを常とす
左ればこの二種の中、前者は過飮の酩酊人にして此輩に向て節制中和を望むは到底無理な
るべしと雖も其他多數の人は強て苦痛を犯すにあらざれば酩酊すること能はざる所の者な
り左れば飮酒は必ず過度に陷るものなりとの論は啻に皮相の見たるのみならず本來生理を
知らざるの説と云ふ可きのみ天下多數の人は茶、珈琲、煙草、酒等日々一定の分量を用ひ
て生涯の間、曾て其割合を變ずることなく又人體の組織は日々變更して明日のものは今日
のものと同じからざるが故に今日刺撃を受くる所の組織の分子は明日既にその迹を留めざ
るものなりと知るべし故に酒類の害用より生ずる害とその利用より來る利とは共に世の公
論に任すべきこと勿論なりと雖も今日までの處にては其害のみ著名にして其利uの世に知
られざりしこそ遺憾なれ兎に角に酒類に防消の力ありて人生に利uを與ふること少なから
ざるは事實疑ふべからざるなり扨又その有害の結果を視るに酒に次ぐものは茶なり其害固
より酒と同日の談にあらずと雖も順序に於ては酒の次席に位するものにして其害の重もな
るものは秘結及び~經過敏等に在り茶の成分にはタンニンとて腹部の働を抑制する収斂分
を含有すること凡そ百分の十八なるが故に屡々濃厚の茶を用ふるときは~經の痙攣を起し
又は心臓の働を不規則ならしむることあり然れどもこの體部の消耗を防制する所謂防消の
効に至りては非常に大なるものにして雇人數多召使ふ家の主人の談に婢僕の中よく其労に
服して曾て怠ることなく身體は常に健康にして左りとて多く物を食ふにもあらず幾年も同
樣にして趣を改めざる者あれば其者に限り必ず大に茶を嗜むと云ふ吾々の毎度聞く所にし
て斯の如きは確かに防消品の効能と云はざるを得ず煙草に至ては是等の物質中にて其害の
少なきものなるにも拘らず世人の攻撃は最も甚しかりしが其〓行非常に迅速にして今は世
界一般に需用する事となれり今夫れ煙草の物たるや之を用ふるも酒の如く愉快の感を起す
ものにあらず唯阿片に比すれば魔睡の度少なきのみにて何の快味もあらざるに其流行は水
の卑きに就くが如く殆んど全世界に氾濫し人望ますます盛にして野蠻人も開化人も悉く之
に歸依せざるものなし驚くべきの事實にあらずや盖し總明睿智の人と雖も種々樣々の原因
より成れる結果を唯一の原因に歸せんとするの弊は免かる可らざる所にして醫家の如きも
此流儀の外ならず醫説に視~經の衰弱症を認めてもって煙草過用の徴なりとするもの多し
と雖も歐洲中にて土耳其人の如きは煙草を嗜むこと非常にしてその喫煙の度は醫家の謂う
ゆる過度と稱する所の分量に均しけれども同國人中には視~經の症に罹るもの甚だ稀なり
と云ふ又世界中には小兒の未だ歩行する能はざる頃より喫煙を始め然かも其習慣は全國一
般に行はるゝ所あり若しも前の醫説をして眞實無妄ならしめなば此國の成年者は悉皆盲者
たらざるを得ざるの次第ならん右の如く喫煙に對する非難は何れも一斑を以て全豹を斷定
せんとするの類にして取るに足るものなしと雖も唯一の少しく聞くべきものは煙草を用る
人にして其習慣を廢するときは心身の爽快を覺ゆべしといふの一事なり然れども一朝斷然
として年來の習慣を廢するときは假令へこの習慣は善良なるものにても一時は大に心身を
uすることあり是れ即ち病を治むるに變化療法を貴ぶ所以にして獨り喫煙の一事にのみ限
るものにあらざるなり抑も眞成に喫煙の結果の利害を觀察せんとするには一人一個の塲合
に於けるのみならず數年間其習慣の下に在る數多の人に就き始めて眞相に近きものを窺ふ
ことを得べしジヨン シンクレーヤ氏は英國の養老院に於て年齢八十歳以上の老人百五十
人に就き觀察したるに其中十五人は九十歳以上、四人は百歳以上にして何れも英國陸軍の
老兵にして此百五十人の中二人を除くの外は皆な喫烟家なりしと云ふ又喫烟は胃液の分泌
を獎勵するを以て大に消化を助くるの効あり而して粘液質の人には最も要用なれども~經
質の人には不快なるべしと云ふ珈琲に至ては多言するの要なし其結果は大抵茶と同樣なれ
どもタンニンを含むこと少量なるを以て秘結を催ほすことなく誤用さるゝこと稀れなるが
故に隨て其害の結果を現はすことも亦甚だ少なし扨以上の防消品中何れを撰むべきやに至
りては各自の好み或は其事に慣れたる人の言に依り人々自から其最も適當なりと信ずる所
の品を撰むべし記者は屡々患者の相談を受け其品を指定して功を奏したること少なからず
而して若しも此種の防消品を用ふると同時に今の世に行はるゝ食膳方丈的の美食を全廢す
るを得ば坐業者社會に不消化、膽液等の諸病を大に減却す可きは記者の確信する所なり(畢)