「徴兵令」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「徴兵令」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

徴兵令

昨二十一日法律第一號を以て徴兵令の改正を公布せられたり其全面を窺ふに之れを舊令に

比すれば免除猶豫の區域を狹くし所謂全國兵の主義に照すときは公平に進みたるものゝ如

し就中舊令には戸主の免役は無論、戸主の年齢六十歳以上の者の嗣子或は承祖の孫をも免

したるものが新令に於ては一切これを問はずとあるからには此一條の改正にても大に徴集

の人員を増して帝國の臣民中に廣く服役の義務を負擔せしむることなれば公平なりと云は

ざるを得ず我輩は啻に其公平を悦ぶのみならず今一歩を進れば此度の改正に由り舊惡弊の

一掃を期して之を祝するものなり抑も徴兵遁の文字は殆んど公然たる民間の通語と爲りて

免役の部に入るは最も穩にして最も安全なるが故に國中の壯丁として養子の口を求めさる

はなし少しく財産ある父母は各地方に手を廻はして老戸主の貧なる者を求め之に金を與へ

て我愛子に其家を相續せしめ内實は戸籍の賣買に異ならざる程の醜態を呈したるものが今

回の一擧に由り最早この狡猾手段は行はる可らず誠に天下の一美事又一快事と云ふ可し又

舊令に官立府縣立學校の生徒並に學術修業の爲め外國に寄留する者は徴集を猶豫するとあ

りて其生徒等が猶豫中に滿二十六歳と爲れば遂に之を免かるゝの法なりしものが新令にて

は假令ひ猶豫中に滿二十六年を過るも猶豫の事故止むときは徴集を免かれず啻に免かれざ

るのみならず抽籤の法に依らずして之を徴集すとあるが故に一層巖なるものゝ如し左れば

是れまで官公立學校に入り海外に留學する者は其入校留學中に滿二十六歳を經過すれば免

かれたりと思の外今度は却て抽籤なしに徴集せらるゝが故に尋常の法に從て徴集に應ずれ

ば抽籤にて免かるゝこともあらんに學問脩業の爲めに猶豫の特典を蒙りたる其代りに必ず

徴集を免かれず、猶豫を願はんか直に徴集に應じて抽籤の外れを僥倖せんか、兩樣の得失

に付き竊に思案することならん

右の外新舊相違の箇條少なからざれども之を略し唯我輩は新令に依て免除の區域を減じ全

國兵の公平に進みたるを賛成するのみ然りと雖も其全國兵の實際に就て一方より論ずると

きは論ず可きものなきに非ず抑も全國兵とは歐洲の大陸各國恰も割據の勢を成し唯陸兵の

力を以て能く四境を守ること日耳曼の如く佛蘭西の如きは實際に止む可らざる要なれども

僅に海を隔てたる英國に於ては四面海に濱して天然銀波の國防あるが故に全國兵の必要を

見ず又彼の米國などに至りては國は廣大なれども邊境の虞あらざれば陸兵は殆んど無用な

るが如し是等の事實に照らし見れば我日本は紛れもなき海國なるに果して全國兵の止む可

らざる事情あるやなしや我輩の容易に判斷すること能はざる所のものなり或は云ふ我國の

全國兵は其兵に用あるに非ず唯この法を以て士氣を振ふものなりとの説あれども全國中に

實に兵役に服する者は其數甚だ少なし明治十九年度の統計を見れば國中二十歳壯丁の數三

十五萬六千九百八十一名にして此内現役に服する者は一萬三千二百五十七名に過ぎず全國

兵として一萬三千を徴集するも他の法を以て徴集するも一萬三千は則ち一萬三千にして數

に異なることあらざれば唯全國兵の名を以て特に大に士氣を振ふ可きや否や是れ亦我輩の

知らざる所なり左れば全國兵の名は實際に於て士氣に影響すること大ならずとして然らば

則ち之を廢せんかと云ふに鄙見又これに同意するを得ず本來兵役は帝國男子たる者の義務

なれば一人も之を免す可らず其これを免さゞるの法は或は身體を以て服役し或は金を以て

役に易るの手段是れなり此方案は年來時事新報の持論にして今回の徴兵令に其實施を見ざ

れども新報は尚ほ未だ持論を棄るに吝なる者なり殊に新令の明文に戸主も嫡子も學術脩業

の生徒も一切徴集に洩れざるの法を定めたるこそ幸なれ之に加ふるに兵役税の一項を以て

したらば實際の事に害なくして我兵事上に一簾の資金を得ることならんに實に遺憾に堪へ

ざる次第なり十九年の統計に徴集猶豫の人員十一萬一千四百九十名あり即ち戸主嫡子、官

立學校生徒、海外留學生等にして今此輩が悉皆徴集に洩れずとあれば從前の徴集人員に十

一萬を増したる數にして然かも此増員の中には平均して資産に豐なる者も多かる可ければ

兵役税を課する爲め新に屈強なる税源を得たるものと云ふ可し故に我輩は曾て本紙上に兵

役税の事を論じ其税率の細論までも記したれども其細論の如きは如何やうにても苦しから

ず或は昔年の免役料を再興して少しく其高を減じ二百七十圓なりしを百圓と為し百五十圓

とするも今度兵役税を拂ふ者は中以上の家に多くして政府は何等の煩もなく毎年數百萬圓

の金を得ること容易なる可し陸軍にも海軍にも金を要すること急にして國庫は常に其支出

に苦しむの時に當り此税源を空うするは惜む可き次第なり故に我輩は今回徴兵令の改正を

賛成すると同時に兵役税一項の追加を冀望する者なり