「相撲の所感」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「相撲の所感」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

相撲の所感

東京本塲の相撲は去る十九日より例の如く兩國回向院に於て興業、晴天十日の間その技を

演ずる筈なり右に付き府下の相撲好の人々はその贔負の力士の勝敗に關心し日々塲に到り

て見物するは勿論、茶話酒宴の席上總て相撲勝負の談にあらざるはなし甲はその贔屓の力

士の勝敗に關心し日々塲に到りて見物するは勿論、茶話酒宴の席上總て相撲勝負の談にあ

らざるはなし甲はその贔負の力士の必勝を期し乙は其敵手の技倆を以て當塲第一となし其

贔負々々の力士を賞賛し互に相爭ふて相下らず終には凡そこの十日間は滿都の人士いやし

くも相撲の心あるものは恰も一種の狂疾に罹りたりと評するも不可なきが如し今回時事新

報社に於て相撲の全勝者へ賞品として銀盃を授與せんとするの擧も亦是れ都下流行の狂を

免かれざるものか然るに其興業終るの後に至ればさしも滿都の心を動がしたる相撲談も全

く其迹を収め贔負爭ひの如き亦唯昨冑の夢にして敵も味方も互に一笑に附するのみ又力士

の番附を見るに其昇降黜陟常ならずして數年間同一の地位を守るものとては甚だ少なく或

は病衰等の事故を以て退く者あり或は新進小壯の力士が俄に頭角を現はすあり一進一退優

勝劣敗の事實は目前に行はれて何等の會釋もなく又情實もなし全面の風景甚だ淡泊にして

無造作なりと云ふ可し故に贔負の屬する所も常ならずして去年甲に熱したる熱心も今年は

漸く冷却して乙に移り、從前名も知れざりし田舎相撲にても今度の本塲にて忽ち人氣澤山

と爲るものあり或は贔負の凝り固まりたる最上は力士の病衰にも拘はらず其次第に墮落す

るを悲しむ者もある可しと雖も優勝劣敗の覿面に行はるゝ社會のことなれば到底その贔負

の永續す可きにあらず人氣の冷熱毫も怨恨の媒介たることなくして其間に無限の興味ある

は即是れ相撲の妙處なり

夫れと是れとは事変れども明年は國會開設の都合にて憲法も近日發布になる可しと云ふ右

に付き世人の政治に志ある人々は夫々準備に忙はしき樣子にて或は自から議員の當撰を用

意し又は政黨の募集に從事するなど甚だ多事なる其中に愈々開設の曉に至り右の政治家が

志を得て議塲に出席し雄辨滔々その技倆を試るは猶ほ當塲の力士が回向院の本塲に於て技

を角するが如きことならん又世の政黨政友なるものが銘々信ずる所の政治家を贔負して其

勝敗に關心するは猶ほ都人士が相撲を贔負すると一般なることならん然り而して都人士の

相撲を贔負するや前にも云へる如く其開塲間の有樣を見れば恰も一時の狂を病むものゝ如

く熱心の極度に達すれども塲終れば其熱忽ち醒めて復た狂う態を留めず又その謂ゆる贔負

なるものも去年は甲を贔負して今年は乙に移るなど轉變常に定らざるの間に互に不快の感

を起すことなく其外形内情共に淡泊なれども彼の政黨政友の擧動は果して斯く淡泊なるこ

とを得べきや否や政治は一國利害の關する所にして相撲は一箇人の快樂に過ぎざれば事固

より同日に論ず可きにあらずと雖も世上の人々がその贔負贔負に由りて政治家の勝敗を祈

るの情は相撲贔負の人が力士を視るの情に異なる所ある可らず封建の遺風を脱せざる我士

人等が何事に就ても都て一方に偏して變通を知らず其弊特に政治に甚だしきは掩ふ可らざ

るの事實なれば國會開設の日に於て當路の政治家を始めとして世上幾千萬の人々が例の政

熱を催ほし政治上の功名に執着して酷に勝敗を爭ふが如きあれば其結果は如何なる可きや

我輩の今より恐るゝ所なり政治と相撲と其輕重固より同一視す可らずと雖も贔負の一點に

於ては毫も異なる所ある可らず然るに一方は熱心の中にも自から淡泊なる餘地を存して興

味淺からざる其反對に一方の政治に於て獨り熱心の盛にして遂に狂態を呈するに至るとあ

りては其趣の不風流のみならず日本社會の爲めに聊か赤面せざるを得ず故に我輩の所望を

云へば今後政治に從事奔走する人々は其心事の淡泊にして其擧動の輕快なること恰も相撲

の贔負に於けるが如くならんことの一事なり偶々本塲相撲の開場に際し聊か所感を記して

以て天下大小の政治家に教を乞ふものなり