「土地建物處分規則」
このページについて
時事新報に掲載された「土地建物處分規則」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
土地建物處分規則
昨年八月勅令第六十二號を以て東京市區改正條例の發布ありその第十五條に土地建物處分
方法は別に之を定むとありて當時未だ其規則を公布せられざりしは盖し是等の處分は人民
の所有權に關するものにして其事固より容易ならざるが故に政府にても特に之に重きを置
き篤と審議を盡し能く其利害の在る所を探究したる上にて市民の私權に影響を及ぼすこと
最も少なき方法を採用せんとの注意に出たるものならん爾來今日まで半箇年を閲したる其
間に改正條例に依て組織されたる市區改正委員會は屡ば會議を開て改正の設計に就き議定
したる所ありし由に聞きしが固より公開の議會にあらざれば其模樣の如何は我々の得て知
るべきにあらず唯傍より委員諸氏が熱心鞅掌するを見て其事の着々進歩の中にあるを卜知
するのみ夫に就ても市民の私權上に大關係を有し改正事業の骨隨とも云ふべき土地建物の
處分法は如何に定めらるゝならんと日々その發布を望み居たるに去月廿八日勅令第五號に
て愈々東京市區改正土地建物處分規則を公布せられたり規則は僅々五條に過ぎずして官有
地民有地及び其地に屬する建物植物の處分法、及び新築、増築、改築に關する制限法を定
めたるものなり簡にして盡せりと云ふべし抑も土地建物の處分は假令ひ事の小なるものに
ても人民の私權に關する事なれば鄭重に鄭重を加ふべきこと勿論なれども從來日本の人民
には私權の考甚だ薄く隨て其所有物に對する處分の如きも至て手輕き風にして官用又は公
用の爲め人民所有の土地建物を買上ぐるには買上規則の設けありて授受の手數極めて容易
なれども人民には左までの苦情もなく世間にても之を通常視して怪しまざるの慣習なり左
れば今回の處分規則の如きも實を云へば日本帝國の首府にして百萬の人民が己れの城郭と
頼む數百年來金甌無缺の住居を一朝に變改する大事件なれば其關係する所極めて大なるに
相違なしと雖も年來の慣習として斯る事は毫も怪まざるの風なれば其事の重大なるにも似
ず處分規則の簡単なるは畢竟この慣習の然らしむる所なりとして我輩も亦これを怪しまざ
るのみ
右の次第にて我輩は今回の處分規則に就き別に意見を陳ずることなかるべしと雖も古來の
慣習として私權の消長に關する重大なる事件を輕々看過して怪しまざるの風は後來國の爲
めに謀りて利害如何なるべきや經世家の大に注意を要する所なるべし聞く所に據れば西洋
諸國にて商賣中心の都府は何れも市街道路の區劃に注意を加へ殊に米國新開の都府の如き
は最初より豫じめ其區劃の設計をなしたる後漸次に市區を成したるものなるが故に其整然
たること恰も碁盤の目の如き處もあれども去て歐洲の舊都府中特に倫敦などに至れば其規
模の大にして氣象の壯なるにも拘らず商賣上又は其他の點より市區の區劃を觀察するとき
は甚だ不完全なる處多しと云ふ然り而して倫敦市民の如く商賣に熱心にして且つ實力に豐
なる者が如何なれば斯くも不完全なる市區の改正に談及せざるか一見先づ驚く可きに似た
り英佛間海峽の開〓〓は年久しき談にして世論の反對あるにも拘らず〓〓〓〓に據出する
ものさへあるに倫敦市區改正の談は曾て英人の口頭に上りたることなし海峽の開〓は敵兵
の侵入を便にす可しとの反對説もあることならんなれども市區の改正には如何なる異議の
あるべきや人或は英人は保守の精神に富めるが故に不便とは知りながら不完全なる舊市街
の區劃に滿足するものなりと云ふものあれども彼の英人の商賣に熱心なるは苟も營利の爲
めとあれば海外萬里症毒野蠻の危險をも顧みざるの常なるに眼前、商賣に不便利なるもの
にして久しく英人の目を免るゝものある可らず然るに今市區改正の事のみ獨り黙々に付す
るものは他に重大なる理由の存することゝ判斷せざるを得ず我輩の説に依れば其理由とは
即ち英人が私權を重んずるの氣風にして倫敦府中の寸土尺木いづれも英人の私有に屬し此
人民の私權城は如何なる勢力を以てするも决して破るべからず即ち倫敦市區改正の行はれ
ざる所以にして一方より見れば事、甚だ妙ならざるが如くなれども其妙ならざる所こそ英
の國家の爲に却て大に妙なる所なれ顧みて我國の有樣を見るに國民は私權の考至て薄弱に
して百萬の所有權、一片の法律を以て之を左右し敢て不平あることなし國家の長計と云ふ
可き否や市區の改正固より美擧なれども其實施の一段に至り陰に陽に毫も市民の私權を害
することなきのみならず此一擧と共に却て私權の重きを知らしむるの好機會もある可し理
事者は果して此邊にまでも思ひ至りしや否や事の序に記して以て大方の教を乞ふものなり