「敎育の犠牲」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「敎育の犠牲」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

重きを試驗に置くよりして隨て生ずる所の害悪を擧れば推理力を怠慢に付して徒に暗誦力

の速發を促す事覺え得たる智識を速に忘却する事、事物の表面のみを速に會得するの力を

養成する事、創始の業を企つる能はざる事、物識の風を裝ふ事、周到なる勘考を要すべき

大事件を輕卒に判斷する事、事物の研究を苟且にして其原理を極めざる事、巧意巧智に依

ョする事、少量なる金箔を敷衍して廣大なる面積を蔽はんとする事、試驗の點數を得るに

汲々として心力を一事に專にせざる事及び目前直接の報酬なき事を企つるの心を失ふ事等

枚擧に遑あらざれども我々は今こゝに之を論せず又その敎師が試驗の事を專一にして之が

爲めに貴重なる時間を浪費するが如き間接に學生の上に來る所の害も亦これを擱き唯試驗

懸賞の仕組の無形上の結果は一般に見たる處にて明白に不良のものなりと結論して十分な

る可し抑も年少學生の心を皷舞作興するものは其生活する所の世界萬有と世界に存在する

無限の勢力と此世に生々して自他の幸榮利を謀る吾々人類の事とを理解せんとて其智識

を求るの願望より高尚なるものあるべからず然り而してこの高尚なる願望は懸賞の仕組の

爲めに全く忘却せられ學生が試驗の爲めに得たる智識の過半と其平生實際の生活との間に

一大鴻溝を劃して両者の間互に相背馳するに至れり我々は何故に今の人間は自身固有の高

尚なる願望を捨てゝ却て彼の憐むべき境界に〓〔ちん・さんずい+冗〕淪するやを怪しま

ざるを得ず古來世の年少活溌なる人の心には單に己れの爲めに智識を得んとするの氣象盛

なりしかども今は地を拂ふて衰へたりと云ふも我々は之を信ずる能はざる者なり又純粹高

潔なる一片の精~を以て智識を修めんとする貴き兒童少年が苟めにも唯金錢、喝采、地位

等を博せんとする卑劣なる根性に化せられたりと云ふも之を許さゞる者なり、若しも世に

斯る卑劣者の在るあらば好し其輩の親友をして其卑劣心に投せしむ可きも我々の高尚なる

兒童少年には眞誠唯一なる敎育を授けざる可らざるなり現今の有樣にては敎師學生ともに

其高尚なる精~を失ふて人間智コの最下底に堕落し曾て前途の望を屬したる有爲の學生も

全く懸賞の驅逐者となり學校を卒業したる其後は生涯名もなき凡庸の人たるもの天下皆是

なり悲しむべきの至りならずや

盖し試驗は敎師が其生徒の學述如何を檢〔てへん〕定するには要用なる機關に相違なしと

雖も其敎師たる者にして全く之に依ョして自身の活動を失ふときは常に弊害の甚しきを見

ざるはなし又試驗は敎師其人の適否を試むるに必要なりと云ふ者あれども此一條は他に便

法もあるべし即ち世の父兄及び敎育の事に當る人々が僅計りの煩勞と經驗とを吝まざるに

於ては敎師の適否を判定するは左迄の難事にあらず若し或は其當局の人々にして此煩勞を

厭ふ者もあらば是れは所謂自暴自棄にして斯る人々は寧ろ敎育よりして智コの結果を得ん

とするの望を絶つこそ可ならんのみ或人の説に學校の校長又は敎師たる者は其生徒の課程

表を作り又其定期試驗の問題と答案とを印刷し廉價にて之を賣り又は父兄其他の者をして

試驗を參觀せしむべし斯の如くするときは學校敎育の事を自然に世に公にして人の注目す

る所となり現行〓〓法の害を犯さずして敎師及び學生に程よき刺激刺衝を與ふることを得

べしと云ふ者あり是亦自ら一説にして我々は今こゝに自説を陳せずと雖も父兄をして其子

弟の學習しつゝある所の學業科程を知らしむるの方法は我々の最も深切なる考案を要する

の點なる可し論の終に臨みて猶ほ我々の趣意を明にすべし我々は現行試驗法の誤用に伴ふ

所の弊害に反對する者なり、我々は今の大學校及び其他の學校が博學多識の學士を集めて

學問上に各種各派の議論を許すことを爲さず月謝を廉にして學生の入學を便にして以て全

國一樣に敎育の普及を謀ることを爲さずして徒に懸賞の事に金錢を浪費するの惡習に反對

する者なり、我々は又こゝに兒童少年に卑劣なる根性を見習はしむる事と世の父兄敎師が

同意を表する所の競爭法即ち眞誠天然の競爭法に反する人爲苟且の競爭法に反對する事を

再言し而して我々は最後に政府の採用する競爭法、即ち惡例を天下に示すの仕組に反對せ

んとする者なり盖し政府が當路に撰任せんとする所の人物に向て材能技術の優等なるもの

を要するは固より相當の處置なりと雖も此官吏の撰任法と共に競爭試驗の結果として假令

へ間接とは云へ其弊害を一般の敎育上に及ぼすに至ては决して之を看過す可らず蓋し官吏

撰任の試驗法に就ては其説一ならずして或説には凡そ官吏登用の志願者にして學術技藝と

もに相應の資格ありと認めたるものは別に定式の試驗を要せずして一種便宜の方法を設け

例へば幾年月間夫々の省務に従事せしめ實地の經驗をなしたる上愈々適當と認めたる者を

撰擧採用すべし若しも此種の方法を用ふるときは今日の如く衆人其目的を同うして互に相

排斥し己れ獨り地位を得んとするの競爭を止め且政府の例を傚ふて全國中に流行する競爭

の風習をも一洗する事を得べしと云ふ者あり我々は今此説に關して敢て私見を陳述せずと

雖も世の心ある人々の過去及び現在に亘るこの大弊害を避く可き良案を發見するの目的を

以て深く此點に注意せん事は我々の偏に希望する所なり

以上は兒童及び少年の敎育法に關して述べたる所のものなれ共亦以て女子敎育の事に適用

すべし蓋し今の女子敎育は曾て一度び男子に誤りたる失錯の再演に過ぎざるは識者の深く

嘆息する所にして且女子の塲合に於ては其身心に及ぼす所の害は一層深くして殊に其特有

の長所なる理解力の如きは之が爲に救ふ可らざるの害を蒙るに至る可し我々は今の敎育上

に試驗懸賞法の廢止と共に世人が敎育の事に就ては善惡ともに一層精密なる觀察を爲さん

ことを望み又今代の人が智識の眞價如何を問はずして徒に書物上の敎育を尊崇するの風と

して次第に正路に歸せしめん事を望む者なり尚ほ序に一言すべき事あり即ち我々が此意見

書に記名したるは其大體の主義に賛成したる者にして若し夫れ細目の箇條に至りては人々

各々見る所なきにあらず讀者の諒察を祈るのみ(以下次號)