「敎育の犠牲」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「敎育の犠牲」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

本論に付きエドワード エー フリーマン氏の意見

當世流行の試驗の弊に就ては余は余が自身に従事する學校に於て直接に知り得たる所を述

べんとす余は是れまで若干年間、外に在りて近來再びオクスホルド大學に歸參したる者な

れば新舊兩時の有樣を對照比較するに他人よりは大に便なるものあらんと自ら信ずるなり

今日の情態に觀るに試驗を以て學校修業中の最大目的と心得、試みる者も試みらるゝ者も

雙方ともに全く心を此一事にのみ傾くるよりして試驗の種類次第に揄チし今は其名稱さへ

付する能はずして數字もしくは文字を以て之を區別する事となり入學生は其入學試驗の前

に於てすら既に幾多の試驗を經過せざる可らざるの定めにて就中、有形理學の如きは其試

驗の法、日にますます煩雜となり隨て其費用も少なからず一人の試驗に時としては五十磅

乃至六十磅を消費することもありて學生の氣風は次第に卑きに就くの趣あり扨何故に獨り

有形理學にのみ重きを置くかと云ふに主敎者が自から之に一種の意味を付して容易に他人

の解釈を許さず所謂自分免許なるものにして例へば新規に何學を發明して之を試驗の一科

目に加ふるに學校中五六の人々は又例の發明なるかとて陰に之を冷笑する者あれども誰れ

一人も公然その新發明なる何學の試驗に對して不可を唱ふるものなし盖し今の學問社會の

氣風として苟くも所謂理學の神聖なる領地内に一歩を犯さんとするときは直に狂愚者、學

敵等の惡名を蒙るの恐あればなり斯くて校内の學問社會は無事圓滑、人々試驗の事の外、

他意なきものゝ如くなれども其結果たるや唯大學の學問と授業とを金錢賣買の境界に堕落

せしめたるまでの事にして學生は先づ第一に如何なる試驗を受くるを以て己れの懷中に最

も利uある可きやを研究するに至れり余は再びオクスホルドに歸りしとき「第一級の市價」

と云へる詞を聞て一驚を喫したり如何となれば余が往時同校に在りし時には曾て斯る詞を

耳にしたる事なければなり尤も當時の學生とても高級に望を掛けたるは無論なれども其は

名譽の爲めに望みたるものにして金錢を以て級の價を量るなどは夢にだも知らざりし所な

り又近來は講師業と云へる言ありこれ又驚く可き詞にして以前は絶えてなかりし所のもの

なり而してこの所謂講師の營業者は身は大學の敎師たるにあらずして唯學生に講義するを

以て職業とするものなるが故に其敎ゆる所の科目は多々u々多きを嫌はずして其敎授方も

亦甚だ粗末なるを常とす盖し試驗の一事を以て學問上、唯一の目的となすときは試驗の度

数も次第に揄チし其科目も隨て繁多なる可きは勢の免れ難き所なれども抑も大學敎師の本

分學生をして正當なる書を讀ましめ且つ自ら大部の本書を手にして學生の爲めに其意識を

解釋するに在りて此事たるや本來試驗云々の爲めならずして其學科を講習するに在ること

なれども今日の有樣の如く單に學生の試驗を經過せしむるを以て敎師の職掌となすときは

本書に就て其意義を解釋するの必要もなく敎師は唯書籍の代理を爲すに過ぎずして其弊害

少なからざる中にも其傾きは殊に新設の學科に多し近世史の一科の如きは即ち其一例にし

て本書に就て意義を研究する事をなさず唯彼の講師の草したる講義録を暗誦丸呑にし以て

試驗の急に應ずるを以て專一となすが故に斯る學科には眞誠の敎師は其力を用ふる所なく

して彼の講師營業者をして跋扈せしむるのみ如何となれば敎師の薫陶を受くるは眞に智識

を求むるが爲に外ならずして所謂一級の市價を利せんとするには其營業者より購求するを

以て最も便利なりとすればなり

以上試驗流行の結果は世の學生をして書を讀むは智識を得るが爲めならずして試驗を經過

するが爲め市價を博せんが爲めなりとの思想を抱かしむるものにして其弊たるや實に少な

からずと雖も然れども又これを以て試驗を全廢す可しと望むは極端に趨るの嫌なきにあら

ず若しも現行の試驗法にして不完全なるものならんには宜しく其個條を指摘して之を改正

せしむ可きのみ余は全廢論を不可として局所の改正説を執る者なり(以下次號)