「官吏登庸規則」
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時事新報に掲載された「官吏登庸規則」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
官吏登庸規則
先年政府は官吏の撰敍を精くするの旨意を以て官吏登庸規則を發し高等官吏を登庸するに
は夫れ夫れ試驗を設けて能否を判することを定められたり其試驗の方法は如何なるや固よ
り實務上の才能に就ても適宜の取捨ある可しと雖も主として標準を學藝の點に置くものゝ
如し抑も政治の事務たるや學理の法則に準據す可らざるもの多く又學校の教育は直に政務
の取扱に恰當するに非ざれば啻に書を讀み字を解するに巧みなりとて未だ以て機宜に處す
るの任を托するに足らざるや明なり政法を説き經濟を談ずるに言ふ所は學理の深奥に達す
るも變通流用の資に乏しき者は事に當り措辨の道を知らずして失敗蹉跌を免れざること喩
へば猶ほ軍人の如し六韜三略暗んせざるはなき程の學者にても彌々戰爭の實地に臨むとき
は計略を誤り度を失し敗衂に及びて始めて書を焚くの類は古來珍らしからざることにして
之に反し絶て兵書に不案内なる者にても能く機に臨み變に應じ往々書籍以外の運動をなし
て首尾よく戰勝を占むる者あり人或は前者を以て正則となし後者を以て變則となす者あら
んかなれども學理の定むる所は精に似て狹く變化の來る所は微にして多きの習なれば變化
激しき戰爭の實地には才能熟練こそ大切のものにして無學能く勝つ者は决して例外の例に
あらざるを知る可し然りと雖も今の戰爭は殆んど器械的の事にして專ら有形の數理に據る
可きもの多きが故に軍人の進級等には或は學理上の試驗を要することありとするも高等文
官の司どる所は無形の世務人事に屬し數理の以て支配す可らざるものあり然るを今その人
の智徳を判するに單に文筆又は記臆力を以て標凖とするが如きは人爲有形の鏡を以て人の
精神を寫さんとするに等しき塲合もある可し斯る登庸法をして永續せしめんには官途は遂
に活機に遠き學者の叢淵と爲り實用の才器を抱く者は却て其處を得ざるの弊はなかる可き
やと我輩の竊に憂慮する所なり和蘭國の例に徴するに同國は國の小なるにも似ず學問教育
に重きを置くこと非常にして全國一般頻りに之れを奬勵し官吏の登庸にも學科の試驗を以
てせしかば應募合格者のいよいよ多きと共に試驗の科目をますます高め一次の試驗を畢れ
ば二次の試驗をなし三次四次恰も試驗の奔命に疲れしめ僅に淘汰を行ふまでに進歩したる
に拘はらず獨り會計官のみは試驗以外に登庸の道を開きたりといふ葢し會計官は經驗熟練
の力を假ること他に比して最も大なるが爲めなるべし是に由りて之を觀るも試驗登庸の法
は殆んど裝飾に似たるものにして實用の才能の政務に大切なるを知るに餘りあらん今の日
本の官吏登庸規則も亦前記の弊あるを免れざるが如きは誠に惜むべき次第にして斯の如く
學藝の試驗を重んずるに至りては西郷隆盛も陸軍士官の試驗に落第し大岡越前守も判事試
驗に及第覺束なかるべし此事たるや必ずしも例を古人に求むるに及ばず今の當路の大臣と
ても學問の一點に於ては高等試驗に如何なる成績を顯はすべきや之に及第する爲めには必
ず其準備に長き時日を費して大に苦しむことならんなれば官吏の登庸に試驗の重きを以て
するは實力ある者の龍門を杜絶するものと云ふも不可なきが如し
右は社會の事情に照らして汎論したる所なれども爰に我國の現状に於て同規則の存在に最
も困難する次第ありと云ふは外ならず大臣の秘書官是れなり大臣の更迭は左まで珍しき事
に非ずして中には民間より新に任ぜらるゝ者もある可し然るときは其新任大臣は如何なる
秘書官を撰用すべきや本來大臣と秘書官とは極て親密を要するものにして互に其性質を知
り意向を知り經歴をも知り生育をも知りて恰も同身一體ならざる可らざる者なれば幸ひ政
府の高等官中に其人あれば格別なれども不幸にして然るを得ざるときは勢、他に向て之を
求めざるを得ず然るに秘書官の資格は奏任官に限ることなれば爰に高等試驗を受けざるを
得ず新任大臣の服心たる可き其人物が文筆に富み學問の記臆力問答の頓智力に逞うして能
く試驗塲を通過すれば論なけれども或は然らずして其塲に失敗落第するときは大臣は秘書
官なきに苦まざるを得ず如何となれば有合の官吏は眞の秘書官となすに足らざればなり左
れば官吏登庸規則は現今の必要に照して如何にも不安心の次第にして何れの點より之を見
るも速に大改正を加ふること差向き政務の爲めに急要なるべし