「支那人の來住は條約改正の故障と爲らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「支那人の來住は條約改正の故障と爲らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那人の來住は條約改正の故障と爲らず

現行の海外各國との和親通商條約を改正することは二十年來日本國民の希望する所なり再

三再四之を企て再三再四其事成らず最後の企の如きは當坐の捗取り最もよろしく其成功期

して待つべきものゝ如くなりしに何ぞ圖らん其最後の企も亦前數回の例に漏れず百里の道

を行く九十九里にして遂に中廢することゝとなり國民の失望言はん方なし如何なる不可思

議の原因あれば斯る始末に立至りしや今日の處にて我々日本國民は或は遂に愁眉を開くの

期なかる可きやと疑ふまでの極に達したる者なり

日本在留の外國人中に説を爲す者あり曰く條約改正の成らざるは其責總て日本に在り諸外

國は及ぶ丈けの好意を表して改正を賛助せんとすれども主人自から之を决行するの勇に乏

しきを以て折角成るに垂んとしたる改正も遂に其事を果すに至らざりしは殘念千萬なり日

本人が改正を好まざるは支那を恐るゝが故なり一旦歐米諸國との條約を改正し日本人が自

國の法律を以て自國を統治し之と同時に全國を開きて内外人の雜居貿易を自由にするの日

に至れば勢ひ亦支那との條約をも同樣の振合を以て改正せざるを得ず西洋人の來て雜居し

農工商業の利益を共にするは日本人の恐れざる所なれども獨り彼の支那人は否らず利に敏

なること彼れが如く辛抱強きこと彼れが如く節儉なること彼れが如き者をして來て共に居

を同うし共に營利塲裏に馳驅するの自由を得せしめんには日本人は連戰連敗遂に國を擧げ

て支那人の有に歸するの不幸に陥るべし現行條約の不便は忍ぶべし支那人の雜居は忍ぶべ

からずとて扨は將さに成らんとする條約改正に向て一段の勇氣を欠く所以なりと此説は頗

る廣く外國人中に行渡り居り往々有識の紳士にして公然之を口にする者さへなきにあらず

實に法外千萬なる流説にして日本國民を誣るの甚だしきものなれば我輩は一言以て之を左

に辨明すべし

元來日本國民は支那人と營利塲裏に競爭することを恐るゝ者にあらず支那人利に敏なりと

いふとも節儉謹勉なりといふとも日本人に比較して何程の相違かある日本人は既に歐米人

が商業上の知識經驗及び其技能に加ふるに資本の裕かなるを以てするをさへ恐れずして全

國を打開き彼等の來り住するに任せんとする今日に當り利に敏なりとか節儉なりとか自己

と類似の特能を有する人に向て殊更らに恐怖の念を有するの理なかるべし併しながら米國

に又濠洲に支那人を觀ること餓虎狂犬の如くし敢て廉價勢力と競爭するの義勇心なき歐米

人の眼には日本國を開きて支那人の來り住するに任するを危險至極の事なりと觀念するも

一應無理ならぬこととして試に彼等の説に一歩を讓り假りに日本國民が支那人の來住を恐

るゝものとせんか今之が爲に條約改正を躊躇するの理由は毫もあるなし其次第は西洋諸國

との新條約の例に傚ひ日本支那の條約を改正し支那人の來住を許すときは支那も亦日本人

の其國に來住することを許さゞるべからず今の支那政府は果して斯る新條約を締結するの

勇氣あるべきや如何我輩は斷して其必無を保證する者なり若しも日本人にして一たび支那

内地に雜居するの自由を得たらんには之を合圖に歐米各國人は一齊に北京政府に迫まり異

口同音に日本人と同一の自由を得んことを要求するなるべし米國人の如く支那人の來住を

許さゞる者に向ては北京政府も之を拒絶するの口實あるべしといへども日本と同一の約束

に從ひ自由に支那人の來住を許し自由に支那に來住することを望む者には千百辨難到底之

を承諾するの外に策なかるべし果して然らば日本人の來住の自由を與ふるの日は世界の人

に來住の自由を與ふるの日なりと覺悟し充分の决心を爲したる上ならでは日本との新條約

は决して結ぶべからざるなり今の支那政府に此决心あるべきや如何我輩は世人と共に斷し

てこれなきを知る者なり

果して前節の所説に相違なしとするときは假令へ日本人に於て歐米各國と新條約の例にな

傚ひ同一の約束を以て支那人の日本に來住することを許し日本人の支那に入ることを許す

の改正條約を催促するとも支那人は斷して此催促に應せざるべく結局出來ぬ相談として終

はる可きのみ故に今外國人中に流傳する日本人は招くも敢て來らざる支那人を恐れて條約

改正全國放開の事に躊躇するものなりとの説は日本支那の國情に疎にして事の眞面目を察

すること能はざる淺識者の口に出でたるものか否らざれば無辜の人を誣て私かに己れの責

を卸さんとする狡猾者流の造り出したるものに外ならざるべし我々日本國民は支那人の來

住を掛念して現行各國條約の改正に躊躇するの理由を有せざるなり