「狂言筋書」
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時事新報に掲載された「狂言筋書」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
狂言筋書
サラ―ベルンハルドは久くセートル フランセイズ の座に在りて聲名を轟かし歐洲梨園
社會の巨擘として有名なる女優の一人なり女史は此頃歐洲の演劇は數十年の昔に較べ退歩
の傾あるを論じ其意見を公にして曰く現時歐洲に於ては名優に乏しきのみならず狂言脚本
も近來の著作の概ね見るに足らざるは要するに公衆の意匠退却したるが爲めなるべし脚本
の善惡巧拙は作者の才力に依ること論を竢たざれども其才力を率ゐて面白き脚本を世に顯
はれしむる所の遠因は之を時の公衆の意匠に歸せざる可らず即ち公衆の意匠にして進まざ
れば出る所の脚本に見る可きものなきは明白の事實にして而して脚本拙ければ俳優の技藝
は退歩して名優その跡を斂むるや疑ある可らず歐洲に於て演劇の盛なりしはコルネーユ
ゲーテ、レーシネ、モールの諸大家が專ら脚本を編みたる時代にして此等の名家は相尋で
東西に輩出し其院本の新素趣向は前後を壓して隨て俳優は面白き狂言を演ずるを得たりし
なれども今日に至りては斯る脚本家なきのみならず其傑作を高閣の上に束ねて殆んど顧み
ざるは公衆の意匠前日の如くならざる證據にして俳優の技藝も亦これより進歩を見ず左れ
ば公衆の意匠にして凡庸なる脚本を擯斥することあるに於てはコルネール、ゲーテ再生し
て梨園に名優の現はるゝや疑なけれども今日に在りては其原因の之を許さゞる者あるが故
に斯る衰退を來したるに外ならずと
以上ベルンハルド女史の議論は特に公衆の意匠を責むるに急にして極端に馳せたる嫌なき
に非ずと雖も劇道の衰退は役者の罪ならずして其時の人情世態と作者の關係これに與りて
力ありと爲すの點は我輩の異議なき所より歐洲劇道の盛衰は兎に角に近來吾國には演劇改
良の論盛にして或は俳優に人なきを咎め或は狂言の不完全なるを罵り甚しきに至りてはチ
ョボも廢す可し花道も壞可しとて全く日本在來の芝居の筋を變じて西洋風に爲さんとする
の極端論も一時は世に出でたりしが幸に昨今は其極端論者も少しく勢を失ふて温和なる改
良黨の存するのみなれども其言ふ所は尚ほ我輩に於て服する能はず即ち彼等は古人の作は
悉く陳腐荒誕にして見るに足らず己れ自ら脚本を編み其摸範を示すに非ざれば演劇の改良
は望む可らずと爲すものゝ如くなれども扨この實際を窺へば筋書は只管小説流に書流し趣
向の妙と文字の奇とを翫ぶのみにして舞臺と俳優とを考へ又世人の意匠嗜好に投ずるや否
やを問ふものは至て稀なりと云ふ元來著作家が脚本を著はすには二樣の考ある可きことに
して一は小説一は臺帳として之を編むに於ては大に相違なかる可らず小説に在りては望む
所の正人惡漢は筆尖隨意にこれを作りて巧案を運らすこと容易なれども臺帳として實地に
用ふべき脚本を作るの塲合は然るを得ず作の思案を凝らすに先だち豫め俳優の有無と役の
適否とを考へ始めに既に窮屈なる模型の中に其案を遮られて然して後ち狂言を組む者なれ
ば小説流に書流したる筋書の實際に當篏まらざるや論を竢たず例へば眞成の臺帳を作らん
として筋書を編むに於ては團十郎菊五郎は今の日本に各一人の俳優なりとして趣向を立つ
可き所なるに小説流の筋書に在りては三人五人自由に新聞に雇來りて名優腕揃ひの立廻り
を演ぜしむるは妙案至極なりと雖も實地の舞臺に三五の團菊なきを如何せん是に於てか罪
を梨園の無人に歸して其衰退を嘆するが如き我輩の最も心服せざる所なり又改良論者は改
良に熱すること甚しくして全く自家の想案を書下し却て其趣向の世情に適するや否やを問
ふの念は左まで深切ならざるが故に新案家の脚本にして實地の舞臺に名聲を博したるもの
は甚だ稀なり若しも其新案家が身を看客の地位に置き虚心平氣にして斯る脚本を評したら
ば其實際に行はれ難き事情を許すことならんなれども今その然らずして机上の小説を直に
舞臺に施さんとするに當り演劇者の之を拒むあれば之を彼等の無學無識と云ふ人を責むる
こと刻なるが如し抑も演劇に對する日本人の意匠即ち日本人の芝居見る目は今と昔と比較
して進退如何ん是れは他日の論として兎に角に從來の狂言作者は今の世態を知らず又新規
の改良家は劇道の實際に通せずして孰れも世情に投ずるの機敏に乏しきは事實に於て爭ふ
可らず故に我輩は脚本の著作を以て自ら任する新舊の士人に向ひ敢て其巧拙を評するには
非ざれども唯その己れを虚うして世情の進退と視察し公衆の好む所に投じて徐々に高尚に
達せんことを勸告するのみ