「露國政府は果して與り知らざるか」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「露國政府は果して與り知らざるか」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

露國政府は果して與り知らざるか

倫敦二月廿五日發の電報に露國政府は近頃布教の目的と稱して亞弗利加のアビシニヤに常

陸したるコサツク人一隊の擧動に付き責任なき旨を布告し同隊の首領は目下オボックに於

て佛人の爲めに拘留中なりとあり露国政府が果して此事に就て關係なしとすれば夫れまで

のことなれども或は然らずして布告は唯表向きの儀式のみに供へ内實陰かに奬勵補助する

所のものあらんには露國の進取政略も是れまでの如く亞細亞歐羅巴の間のみに止まらずし

て其鋒既に亞弗利加に及び歐洲列國呑〓(ぜい・目+筮)の一原因を加へたるものと云ふ

べし抑も今日迄我輩の接したる報道に從へば未だ容易に露國政府の公言を信ずる能はざる

所のものある其次第を述べんに彼の露國の宣教師が上陸したる地は近頃伊國の所領となり

し亞弗利加マツソワの南、紅海に瀕するアビシニヤにして露帝の干城股肱と恃むコサツク

人の一首領アチノフ氏が數年間專ら計畫せし新モスコーと稱する所なり元來このアチノフ

氏は露國政府はトランスカスビヤン地方を侵略せしとき大に功を立て其後土耳古及び波斯

政府に抵抗して爭端を開きし頃より漸く世人に名を知られたる人にして千八百八十六年の

秋三十年の部下を率ゐて不意にアビシニヤの國内に出顯したるに是れより先き伊太利の公

使は國主ジヨン王の爲めに國外に放逐され續いて英國政府の使節ポータル氏も數週間縲絏

に苦みたる後これも亦放逐されたれども獨りアチノフ氏の一行は王を始めアビシニヤ國人

の爲めに歡んで迎へられラス アルラ と稱する大將の厚遇を受くること十日間にして王

宮の官吏一名態々數里の外に出迎へ首都に伴ふたる上旅館を與へて氏が滯在する四箇月間

は官吏をして接待に從事せしめ國王へ謁見の爲め宮中に赴くときは樂隊をして扈從せしむ

るなど數百年前葡萄牙人が放逐されて以來は國に入り込む外人の夢にだも見ること能は坐

る所の厚遇なりき盖し氏の一行が本國政府より如何なる内命を受けて來りしかは詳ならざ

れども當時アビシニヤ王は英、伊二國を退けて露國の保護を受けんと欲し是れまで曾て外

人に與へざる特權を露國に與へて兩國間に通商條約を締結したりとの風聞あり且アビシニ

ヤ人民の奉ずる宗教と露の國教希臘教の相似たる所より王はアチノフ氏の勸誘に從ふて両

教を合併せんと欲し希臘教の宣教師を厚遇せんと約束し露人をして容易に其本國よりアビ

シニヤに徃復せしめん爲め氏の一行に加勢の兵士若干を貸し與へ諸共にマツソワの南、紅

海に面する殆んど三十方英里の地を土酋より強奪せしめたり是れ即ち新モスコーにしてコ

サック人とアビシニヤ人を連合したる兵士は其後露國の國旗を掲げて之を守護せり而して

露の本國に於ては一百名計りの宣教師が用品を調度して數月前既に該地へ向けオデサ港を

出發せんとし之に後るゝこと一ケ月にして殖民開拓に熱心なる無數の志願者より撰抜した

る小壯二千人も亦進發する筈なりしに右宣教師等は政府の命によりて暫らく其出發を延引

し既に汽船に搭載したる大砲其他調度をも再び陸上げしたりと云ふ以上は我輩が近頃知る

ことを得たる此事の發端なるが其後一月廿二日倫敦發の報に二百人のコサツク人を以て組

立たる謂ゆる露國宣教師の一隊がアドジユラに上陸したるに付き英伊二國は其擧動に注意

し居れりとありて又同月三十一日亞弗利加スワキム發の報にアドジユラ灣に於ける露國殖

民の首領アチノフは從者に向つて若し伊國軍艦が海岸近く來るならば發砲して之を拒むべ

しと令し其擧動は都て露國政府の命なりと稱し遠からぬ内コサツク人の一隊も再び來着す

可き旨を明言したりとあれば一旦見合せたる後間もなく出發したる前二百人の隊はアチノ

フ氏が自ら率ゐ來り其後程經て氏は佛人の爲めに捕へられたるものなるべし報道切れ切れ

にして近情の全般を窺ふに苦むと雖も要するに露國は果して亞弗利加に殖民地を開くの意

なきかアドジユラ灣の地を占めたるは只だ宣教師等の一存にして政府は眞に與り知らざる

か大に疑ひなき能はず尚ほ後日を待つて詳に知るべきのみ