「貴族院」
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時事新報に掲載された「貴族院」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
貴族院
世界萬國同樣の人情にて我日本に於ても時の政府に反對する聲は最も能く民間の人氣に叶
ひ隨て世の政治家と稱する者も好んで反對の有樣を示すは從來の實際に於て人の皆知る所
なり是れには自ら因縁由來のあることにして我輩も折に觸れて朝野の注意を促したること
ありしが終に其聲の未だ鎭まらざるに憲法は既に發布せられて早くも明年は彌々國會を開
設するの期限とはなれり蓋し此聲の落合ふ所は國會議塲にあることなれば察する所衆議院
の議論は定めて喧々擾々として間々政府の當局者と意見の相投ぜざることあらん政府に取
りては隨分煩はしき次第にして我輩も聊か不安心に思ふ所なり然るに論者あり説をなして
曰く衆議院の議論は如何にも喧しきに相違なかるべしと雖も憲法に明記する如く衆議院の
外に貴族院なるものあり貴族院議員は皇族を始め華族及び勳功あり學識あり將た財産ある
者等より勅任せらるゝものにして之を衆議院議員に比するに身分地位共に遙に重きものな
れば隨て其議員も亦鄭重親切なるべし左れば衆議院に於て如何なる决議をなすとても貴族
院は容易に之に同意せずして少なくとも活溌と沈着と相中和するを得ることならん必ずし
も深く憂ふるに足らざるなり云々とて徐に慰むる者あれば之を聞いて竊に心を安んじ事の
十中七八迄は貴族院に依頼せんとする種類の人もなきに非ざれ共我輩に於ては何分にも安
心すること能はず葢し政府と貴族院とは其縁相近くして間柄の親密なり易きものなれば一
時政府の趣向によりて貴族院を機械となし衆議院に對せしむるは固より容易なるべしと雖
も既に機械となれば之と同時に世人は目して無となすべし如何となれば貴族院の本色たる
衆議院に反對するに非ずして成るべく共に恊同して時に不都合の廉を修正する迄のことな
るに今や則ち然らずして却て政府の機械となるときは政府と衆議院と對立するのみにして
貴族院は議政上に恰も取除けられたるの姿となる可ければなり斯くて貴族院は有れども無
きに均しからんか無き物に金を費すの損を奈何せん啻に金錢上の損のみならず衆議院は貴
族院を以て己れの味方と思へばこそ時に否决せられ又修正せらゝと雖も内心一團の温氣は
容易に感情を凝結せしめずして幾分か宥恕と納得の餘地を與へ議事は爲に平穩に通過すべ
きなれ共若しも然らずして政府に同一味するに至ては衆議院の心構は都て前と反對にして
高まるまじき聲も爲に調子を高くし、激すまじき感情も爲めに一層激動して其極或は生す
まじき軋轢を生ずることを免れざるべし即ち無効有害にして貴族院の弊こゝに至て極まれ
り顧ふに英國の上院は世に之を皮相して有名無實と稱するものあり其名無實なりと云ふは
上院の微力なる下院の决議に抗すること能はずして殆んど下院のまゝに通過するが故なれ
ども之を政府の砦となりて下院と軋轢するに比すれば其得失果して孰れぞや固より英國は
政府と上下院と三體恰も合一にして日本と國情を同うせざれども彼の上院の微力なりと云
ふは寧ろ其本色を得たるものにして他國に於ても亦龜鑑として見るべきのみ
抑も我國にて國會の開設を約束したる由縁は從來の如く政府にて政治の一切を綜理し機宜
に從ふて措辨すべき所なれども世運の進歩は留むるに由なくして政府の意見通りにても穩
かならず人民の方に於ても亦種々の説あるが故に廣く公論を容れて以て施政の方針を定め
んとの旨意に外ならず事頗ぶる穩當にして而して貴族院と衆議院とは共に是れ公論を代表
するの重任を帶ぶるものなれば枉げて政府の機械とならずして兩院共に誠實を旨として與
論の所在を表し其職分を全うして併せて政治上の徳義を全うするこそ實に政府が國會を開
設したる旨意に適ふものなるべし我輩は兩議院の間柄の平穩圓滑ならんことを希望する者
なり