「議員の候補者」
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時事新報に掲載された「議員の候補者」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
議員の候補者
日本は純然たる農産國なり政府の歳入七千六百萬圓にして其中四千二百萬圓は地租より入
るものなれば日本にて土地を所有するものは納税者として國の政費七分の四を負擔するも
のなり其義務輕からずと云ふ可し扨國に代議の政を布き國會を開き人民をして國事に參せ
しむるには種々の理由もあることならんなれども其第一の目的は國民たるの義務を負擔す
る者に國政參與の權利を與へんが爲めなりと云ふて不可なかるべし此點より見るときは日
本の農民即ち土地の所有者は國民中最重の義務を負擔するものなれば國事に參するの權利
も亦他の民族に比して寧ろ大なる可きも輕きに失するの理由ある可らず過般公布されたる
衆議院議員の撰擧法に撰擧人並に被撰人の資格を定るに直接國税を標準と爲し其直接國税
をば地租のみに限らずして所得税をも之に加へたるは如何なる理由に出でたるものか之を
知る可らず固より今の歳入に於て所得税の金額は百萬餘圓に過ぎずして地租は前文の如く
多額を占むることなれば全國中にて撰擧人被撰擧人の數は地租の納税者即ち農家に多かる
可き豫算なれども凡ろ人事に關する豫算の數は往々實際に臨んで却て反對の結果を見るの
例なきにあらざれば今回の議員撰擧の如きも能く實際に注意し國會議塲に於て農家議員の
多數を占ること果して豫算の如くならしむるの工風肝要なる可し
近來各地方よりの來信に憲法發布以來政治社會は頓に春色を催ほし人々花に先つて狂する
の觀ある中にも議員撰擧の一條は最も人心を動かして到る處候補者云々の談を耳にせざる
はなし而してその指定せんとする所の人物は如何なる種類の者なりやと云ふに其地方地方
の名望家財産家を以て之に擬するは固より事の自然なれども又一方には然らずして國會議
塲を書生論の塲なりと認め六かしき議論の塲所には滅多の人物を出す可らず若しも撰擧法
の資格を以てすれば我々地方の大家豪農に候補たる可き者固より乏しからずと雖も何分に
も紛議爭論の塲所となりては容易ならず寧ろ久しく東京などに在て事慣れたるものか若し
くは官邊に奉職して世間に知られたる輩に讓るこそ然る可けれなどゝ淺墓にも速了して既
に其邊の用意に取掛りたる向もなきにあらずと云ふ抑も國會の議塲は一なれども人々利害
の關する所は各々一なる能はずして或は之に依て平生の功名心を滿足せしめんとて恰も私
の爲に國會を弄ぶ者もある可し又或は國會を以て眞に國民の利害を代表しその權利を保護
するの塲所を爲さんと志す者も少なからざる可し而して今の地方にて多くの土地を所有す
る人々は即ちこの後者の種類にして眞實國會を以て權利の保護城に充つ可き筈なるに然る
に如何なる心得にや自ら好んで其保護城を明渡して他人の利用に一任せんとす我輩の不審
に堪へざる所なり
國會の議塲に立て堂々の議論を吐き或は政府に左袒して其議案を辨護し又は之に反對して
其政略を攻撃するなどは固より壯快にして政論家が得意の役前なる可しと雖も斯る壯快事
は政論の頂上積極の談にして容易に望む可きにあらず日本の憲法は極めて完全にして議院
法も亦周到なりと云ふと雖も何を申すも國會は我國創始の業にして國民參政の手初めなれ
ば今日に在りて我々人民の覺悟を云はゞ進んで積極の事を爲さんとするよりも寧ろ憲法の
下に自家の權利を保守して毫厘も毀損せざる事に注意するこそ肝要なるべし即ち進んで天
下國家の利害を政談風に談ずるよりも退て自から守るの覺悟を定む可きのみ病氣の容體を
述べんとならば必ず自身にす可し、他人の取次を用る勿れとの道理は爭ふ可らず然らば則
ち土地に關する眞實の利害は其土地を私有する地主にして始めて適切なる可ければ其私の
利害を保護するに他人の取次を用ふ可らざるの道理も亦明白なる可し左れば議塲の事は决
して高論多言を要せず唯憲法の範圍内に居て謹んで自家の權利を護る可きのみ或は辨舌に
拙き者は發言討議にも及ばず默して他員の喋々を聽き能く自家の利害に關す可き要點を察
して其决議に至り或は起立し或は起立せずして議會一員の權利を利用すれば以て代議士た
るの職分を達するに足る可し議論不得意の故を以て漫に他人に依頼して大切なる地方の權
利を棄るは我輩の取らざる所なり