「官邸廢す可し」
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時事新報に掲載された「官邸廢す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
官邸廢す可し
四五年前までは各大臣中官邸に住居するものは外務大臣の外に其例少なかりしが近年來は
官邸の建築頻々にして各省に官邸あらざるはなく其結構何れも壯大にして之に附屬する秘
書官其他の住宅を合すれば儼然たる一個の省廳の如きものも少なからず盖し官邸の設けた
る内外の交際上に國の大臣たる位地面目を保つが爲め又一つには事務上の便宜の爲めに出
でたるものならんなれども熟ら熟ら今日の事態を察するに政費節減の急は既に目前に迫り
たるのみならず施政の方便より立論するも政府の上流に位するものが既にその位階俸給の
高く且つ豐なる上に車馬邸宅衣服などの美を飾りて徒らに世間羨望の府となるが如きは智
者の膽略に不似合なれば自から俸給を辭して又政務に從事するなどは最も妙なれども若し
も遽に然する能はざるの事情もあらば之は後日の談として先づ政費節減の一點より第一着
手に官邸を廢するは差向きの一策なる可し大臣の身分には俸給祿位の其外に十分なる交際
費等もあるよしなれば官邸なければとて内外の交際に差支ある可き筈もなく况んや事務の
取扱上に於てをや官邸の有無は事務取扱の便否に關係ある可らず左れば斷然これは廢する
として扨從來幾多の官邸は無用のものとなりて諸處に宏大なる廢邸を現出するに至る可し
と雖も無用决して無用ならず之を賣拂はんとすれば目下の時勢隨分所望の者もある可し又
或は其廣大なるものは直に之を各省廳に代用するも可なり世人の知る如く政府にては先年
來臨時建築局を設け數多の官吏を置き又は外國の技術家を雇入れ國會の議事堂を始め諸官
衙の新築に從事する筈にて建築の設計をなし敷地を相定するなど今正にその計畫中のよし
なれども我輩の所見にては當今の時勢に土木の沙汰は先づ以て無用となし諸官衙の新築は
斷然見合せ(國會の議事堂も目下建築中なる假議事堂にて十分なる可し)廢官邸の適宜な
るものを撰んで之を利用せんと欲する者なり諸省の役員とても今日の如き有樣にては非常
の人數を要し隨て此人數を容るゝ爲めに廣き塲所も入用なることならんなれども今後勉め
て繁文を略き事務を省くの日には事に從ふの吏員も同時に大に減少して長官は自から省の
楼上の一隅若しくは其附屬の家屋に住居して事務を聞くことゝもならば監理の便は申す迄
もなく從前の如く本省と官邸若しくは私邸の間に車馬を走らし使丁を往復せしむる等の面
倒もなくして事足る可し或は今の官邸は一私人の住居としては大に過れども省廳としては
手狹なりと云はゞ其周圍の空地に聊か増築するも可ならん其費用の出處に就ても我輩聊か
考案なきにあらず前に述べたる如く臨時建築局の工事を止め諸官衙の新築見合となるとき
は兼て相定し置きたる敷地も無用に歸す可ければ此地面の坪數を公賣に付しこの代價を以
て官邸増築の工費に充て决して不足を訴へざる可きは我輩の保證する所なり
左れば諸省の官邸を廢して或は賣拂ひ或は官衙に代用するの一事は自から今の經濟の得策
なりと思へども人或は此策を悦ばず既成の官邸を其まゝ賣却するも是れまでの所費を償ふ
に足らずして巨萬の金を損し又これを官衙に代用せんとして増築などすれば却て更に金を
費す可しなど説を作す者ある可し自から一説にして目下の錢の損益に就ては我輩も強ひて
爭ふの意なしと雖も平生の素論に於て我輩は今の諸省の組織を大に縮小せんと欲する者な
れば臨時の大建築を廢するは無論、幸に廣大なる官邸の不用物あれば轉じて之を利用せん
とするの一策を献じたるのみ但し假令へ之を官衙に用ひざるも廢邸案は飽くまでも斷行を
勸めざるを得ず從前の如く之を維持する爲めには多少の官費を要する其上に拝借人の生計
より論するも居宅の不相應に壯麗なるが爲めに自然に日常の費用を増して私に却て困却す
る意味もある可し我輩の所見に從へば早晩大臣の俸給にも必ず大變動ある可しと信ずるが
故に其生活法は今より省略の覺悟こそ肝要なれ然るに居宅の大なるに誘はれて省略の實施
に窮するが如きは最も謂れなき次第なれば此點より視ても廢邸の要用は明なる可し