「日米の新條約將に成らんとす」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日米の新條約將に成らんとす」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日米の新條約將に成らんとす

近來世人の噂を聞くに我が外務の當局者は其始め各國の使臣を一堂に集めて條約改正の會

議を開き一時に同一の改正をなさんとして行はれざりしかば今度は各國別々に談判を試み

雙方相許し相容るゝものより起手せんとの政策を取りて先づ第一に米國と協議せしに同國

にては豫てより日本の條約改正を至當なりと認めたりけん滯りなく一致して或は來る十一

月米國々會の開くるに當り上院に於て一應これを評議し議了次第直ちに我が天皇陛下と米

國大統領と互に批准するに至ることもあらんかと傳へ云ふ者あり實否固より知る可らずと

雖も果して此風聞の如くならんには多年日本國民が寤寐に念頭を離れざる條約改正の陰雲

も米國の天邊に雲切れを生じて聊か蒼空を顯はしたる次第なれば日本人民の喜悦は申すも

更なり今後米國人は如何なる仕合せとなるべきや日本は改正の爲めに特に法律を作るにも

あらず又彼國の法官を雇入るゝにもあらず唯このまゝにして米人は此法律に服從して内地

に居を安くし山西關左思ひの儘に居住を占め思ひの儘に旅行するを得るのみならず尋常一

樣の商賣は勿論公債株券の賣買より或は不動産の授受に至るまでも都て日本人と異なる所

なく從來尺寸の區劃内に蟄居して動もすれば強硬主義の手前に會釋したる其窮屈に比すれ

ば恰も仙俗湖海の相違にして居留の外人多しと雖も亦米人の如く自由の幸福利益を享受す

ること能はざるべし抑も從來外國人が日本の法律に服従して各國普通の交際を爲すに躊躇

したる其口實は一にして足らずと雖も主として恐るゝ所は身體の保安如何に在りしことに

て利益も博したし、風土をも探りたきは萬々なれども斯身を擧げて日本政府の保護に一托

せんとするに至ては生命を傷けられても或は其儘に畢るなどのこともありて如何なる危險

變事に逢はんも測り難しとて一日一日と遷延し以て今日に至りしものゝ如くなれども畢竟

彼等が我國情を知らざるに坐するのみ日本の警察は王政維新の後に於て始めて周密を誇る

ものにあらず古より深く注意の行屆きたるものにて開國草創の際外人に對して不穩の擧動

を試むる者もありしかども是れは一時の夢幻塲裏のことにして戰時と同樣、何れの文明國

も同じ事實なれば云ふに及ばず尋常の塲合を以てすれば人を殺傷して捕縛せられざるもの

は百中果して幾何なるや之を聞く歐米諸國にて殺人犯罪者の處刑せらるゝ者は百分の四十

乃至五十にも足らずして餘は遂に露顯せざるか若くは捕縛せられても請據を曖昧に付して

相當の刑を受けざるものなりと云ふ吾々日本國民の聞いて悚然たる次第にして我國にては

何とて斯る不始末あるべきや隨て人を殺せば亦隨て死に處せられ殆んど逃るゝに路なきが

如きは即ち我警察の拔群なる所にして事は决して我輩の虚構に非ず今その一例を示さんに

古來日本の盗賊社會に一種の教育ありて盗を働くに當り人を殺傷するものは愚なり野暮な

り未だ共に盗事を語るに足らずとて其社會に容れられず故に世に強盗を働くものは皆是れ

素人の所業にして正眞正銘のものに非ずと云ふ本來不人破廉耻の極に達したる盗賊が斯く

も殺人犯を避る〓〓ぞや他なし殺傷に及ぶときは必然事の露顯するが故なりとぞ固より盗

賊社會の一奇談なれども亦以て我國に身體の安全なるを知るに足る可し又先年今の米國大

統領の從弟にてシカゴの市尹たるハリソン氏が我國に渡航するに當り聞及ぶ日本とは未開

野蠻の國柄なれば如何なる危害に遇はんも知る可らず同じくは用心に若くはなしとて短銃

を懷にし死地に入るの思ひをなして來りしに扨實際の事情を見聞すれば想像とは雲泥萬里

の相違にして身體生命の安全なる歐米諸國に勝ること遠きに驚き曩の誤想に赤面して取る

手恥かしき短銃をば荷物の底に押隱し軅て本國に送返したるよし又現に過日の時事新報に

記載したる佛國の教師夫婦が憲法發布の當日に橫濱港に安着して市民の異形に驚き文部大

臣の訃報に色を失ひしが既にして實際の事情を聞き新聞紙面に奇談を留めたるが如き是亦

一例として見るべし凡そ是等の點より視察するときは我輩が自から日本を稱して世界第一

の安全國と云ふも敢て爭ふ者なかる可し左れば米人が内地に雜居して心徐かに職業を營み

縦橫四方に往來して格別危害を惧るゝに足らざる其自由幸福は他諸外國人の羨望に堪へざ

る所なるのみならず日本人民も亦聊か及ばざる所ありと云ふは米人に於ては今の居留地に

も居住勝手なれども吾々に至ては此區域内に入ること能はず日本國土にてありながら日本

人民の住居を許さゞるに米人のみ獨り無差別の自由を得んとす條約改正の効能も偉大なり

と云ふべし豈啻に之れのみならんや更に進んで米國の名譽は如何と云ふに抑も日本をして

二千餘年の陋習を改め國を開いて西洋諸國と通商貿易せしめたるものは第一に米國使節の

力にあり當時は不完全なる條約を締結せしが流石に自由平等を愛する國民とて早くも日本

の文明を察し普通の交際法に改めんとして諸外國に卒先して改正の談判に一致し從來の變

則を改めて正則となしたるは啻に日本國民の心に忘れざる所のみならず世界の歴史上に大

書して其名は末代に香ばしかるべし斯くて我國民が米人に對する感情淺からずして米人も

亦これに應じ雙方の交誼漸く親密にして諸般の便利を増すに至らば諸外國人は定めて不快

の感ある可し誠に氣の毒の次第なれども是れは日本の罪にあらず吾々は諸外國人に對して

も猶ほ米人に對するが如く成る可く同樣の交際を希望せしに遂に意の如くならざるに由る

ことなれば餘儀なくも氣の毒を忍ばざる可らず唯我輩の當局者に望む所はいよいよ批准の

曉に當り米國人と諸外國人との間に嚴重なる區別をなして一視混合の間違なからんこと是

なり葢し外人は容貌と云ひ言語と云ひ尋常の我國人には容易に辨別すること能はざるが故

に時としては逸す可らざるの區域に逸したる者をも之を制するに惑ふことなきを期す可ら

ず萬一左樣の事共あるに於ては條役の新舊に區別なきの譏を免れざれば人情は人情、理義

は理義として遺漏なく監督せられんことこそ望ましけれ其方法に至ては當局者の考案に頼

るの外なけれども我輩も亦私案を呈することあるべし