「愛嬌が大切なり」
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時事新報に掲載された「愛嬌が大切なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
愛嬌が大切なり
衣手生稿
今の世間に行はるゝ遊技の種類は其數、多くして枚擧に遑あらずと雖も廣く一般の嗜好に
投じて人氣の盛なるものは先づ芝居と相撲の二つなる可し一は武骨殺風景にして寧ろ殺伐
の氣象を帶び一は風流温籍にして巧に人情の曲折を寫し其趣は同じからざれども人氣の向
ふ所は同樣にして雙方ともに世に持囃され東京などにては流行最も盛にして四時其興行あ
らざるはなく一擧手の動作、一投足の勝負、滿都百萬人の顰笑を動かすこと珍らしからず
人氣の盛なること實に驚く可き程の次第なるが扨この種の遊技が斯る人氣を博するに至り
たるは畢竟其技藝の能く東京男女の嗜好に適したるが爲めならんと雖も人の嗜好は種々
樣々にして剛を愛するあり柔を好むあり活溌を喜ぶものあれば洒落を賞するものあり各々
その同じからざること面の如くにして何れを夫れと定むる能はざるが故に其技藝の何れの
點が都人一般の嗜好に適したるやを明言するは固より困難事なれども世間普通の見解に從
へば看客の贔負不贔負は其藝の愛嬌如何に由るものにて例へば今の相撲にては小錦と云ひ
芝居にて福助と云ふが如し其社會に在ては雙方ともに日の出の立者にして世間の人氣一方
ならざれども扨その腕前は如何と云ふに寧馨兒の技倆固より凡庸ならざるは勿論、後來前
途の望春の如しと雖も若しも藝道の一方より見れば今の老優力士中兩人の企て及ぶ可らざ
るもの亦少なからずして又世人の許す所なれども如何せん世人一般の人氣は此兩少年に盛
にして談、相撲芝居の事に及ぶときは先づ小錦福助の名を耳にせざるはなし技藝必ずしも
第一流ならずして名聲早く既に藝壇に轟くものは即ち其身に固有する一種の愛嬌に依るも
のにして贔負の多き所、人氣の向ふ所、必ずしも藝道の一點にのみあらざるの事實を見る
可し是れは藝人の一身上に就ての言なれども技藝其物に至ても亦この道理に外ならず力士
の裸體にして相撲ち合ふ有樣は随分殺風景なるが如くなれども其中自ら一種の愛嬌あるは
人の知る所にして芝居に至りては愛嬌に富めること今更いふまでもなし右の二藝の世の嗜
好に適して人氣の盛なるは畢竟その藝の愛嬌に在りと云はざるを得ず左れば遊技に愛嬌の
缺く可らざることは勿論にして又其道に從事する藝人にしても世の贔負を得んとするには
愛嬌の大切なること勿論なりと知る可し
右は遊技の細談なれども社會萬般の事も亦なれど同樣にして人間處世の道に於て愛嬌の大
切なるは藝人の藝道に於けると毫も異なることなし盖し人間は有情の動物にして其社會は
全く乾燥したるものにあらざれば固より殺風景の事のみ行はる可きにあらず况して世間の
人氣を相手にする商賣政治の事に於て之を遊技に比して其流義こそ違へ人の贔負に依て自
ら立つの一段に至ては彼是の相違ある可らざれば務めて愛嬌を賣り世の贔負を求むること
こそ肝要なる可きに今の世間の有樣を見れば愛嬌を稼業とする輩にして却て人に愛想づか
しを爲すが如きものさへなきにあらず彼の大なる會社などの役員がとかく橫柄にして得意
の客人を輕蔑するが如きは其本分を忘却したるものにして沙汰の限りと云ふべく又世の政
黨員と稱する人々が自ら高きに居て政治の運動に關係せざるものを罵り又は狂熱の餘り互
に腕力を以て相爭ふなどは外より見て醜に堪へざるのみならず自家の稼業に對しても妙な
りと云ふ可らず盖し今の日本には封建士族の遺流多きが爲め商賣の社會政治の社會ともに
其餘弊を脱する能はずして動もすれば事の茲(玄+玄)に及べる次第ならんと雖も一旦豁
然自ら顧みて其處世の道は藝人の遊技に於けると同樣、世に贔負せられて人氣を得るにあ
らざれば自ら世に立つの困難なることを知らば自今以後、更に其心事身構を改め大に覺悟
する所なかる可らず今の活溌少壯の士人中には商賣もしくは政治社會の小錦、福助を氣取
るもの少なからざることならんなれども兩人の如き愛嬌なくして兩人の如き人氣を得んと
するは到底望む可きにあらず况んや兩人の技倆すらもなきに於てをや今の社會に立んとす
る者は剛柔急徐の流義は孰れにしても先つ一點の愛嬌以て世の人氣を取るの手段專一なり
と知る可し