「馬子にも衣裳」
このページについて
時事新報に掲載された「馬子にも衣裳」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
馬子にも衣裳とは古き諺にして如何なる田夫野人にても錦衣羅裳に身の廻りを飾るときは
其形恰も縉紳の觀をなして間々世俗を驚かしむるに足ることなれば人物の高下は内實より
は寧ろ外觀にありとて嘲謔の意を顯はしたるものならん成程形の上より之を觀れば衣裳は
紛れもなき縉紳なれども其精神心術に至ては又紛れもなき馬子にして裝飾は喩へば枯木の
花の如く到底似付くべき譯のものにあらず支那の所謂沐候にして冠すると同じかるべし之
を聞く維新の前水戸の浪士が筑波山に楯籠りて干戈を動かしたるときに當り幕府の若年寄
某が討手として〓向ひ壘を設けて之を攻めんと欲し工夫募集の命を府下神田の某と云へる
親方に命じたり當時普通の賃銀は一人五六百文乃至一貫文位にて充分なるべき所なれども
太平の世に戰爭の沙汰なれば人足方の言ふがまゝに拂はざるを得ず是に於てか親方は博徒
破落漢の一類を八方より呼集め一人に付き金二歩三歩の賃銀を請求して當人へは僅に其何
分一を與へ親方の懷中俄に膨脹して巨萬の富を一擧に博したるこそ千載の一遇なれ扨平生
は金さへあればと思ひ込み〓寐に忘るゝこと能はざりし其夢想がいよいよ實際となりて自
ら其手に掌握して見れば何れに向て之を消費すべきや當惑に堪へず先づ取敢へず日頃一念
を凝したる伊丹の〓樽を〓込み九尺二間の長屋を毀て格子造りに改築したれども費やす所
は未だ九牛の一毛に過ぎず、土藏を造り外宅を構へたれども是れ迚も亦限りあり、一歩を
進めて書斎骨董を弄び花卉草木などゝ思へども本來此等の心懸けに乏しきを如何せん、周
圍の萬物次第に高尚なるに從ひ心身何となく窮屈を覺えて却て樂しまざりしと云ふ是れは
昔しの一奇談なれども今の我國の富農豪商の中にも或は之に類似するものあらざる歟〓國
以來日本の社會は顛倒して舊來の秩序は着々破壞せらるゝ其混雜に取紛れ資産を失ふ者あ
り〓に之を維持する者あり又或は赤手を以て躍り出で大に儲けたるもあれども今日の實際
にて金の落着く所を觀察すれば維持する者も維持の才あるに非ず唯祖先代々の洗礼古格を
墨守して文明の夜の明けたるとも知らず金を土中に埋めて安心する者の一類にして又大に
儲けたる種族も實は偶然の僥倖により天運に叶ひたる迄のことにして彼と云ひ是と云ひ學
問智識の助けにより實〓を以て資産を成したる者は廣き日本國中果して何人あるや左れば
其身富むと雖も〓中元來一物なければ其財貨を利用して自他公私の爲め有益なる事業を經
營するの思想もなく散財の方向は渾て是れ肉體の娯樂に非ざるはなし即ち都會の富豪は山
村幽雅の邊を卜して別邸を構へ田舎の大盡は〓吹繁華の〓に外宅を設けて何れも〓〓を蓄
ふるか或は所謂文明の交際を羨んで世の物笑ひとなるに過ぎず時に書畫彫刻類に心を傾く
る者もあれども美術の嗜好ありて然るには非ずして唯直段の高きに誇りて自ら慰むるのみ
なれば慶長小判を蟲干して獨り〓々たるに異ならず試に見よ今の世間に富農豪商が自ら發
心して博物館を經營したる者あるや、學校を立てたる者あるや、學事の研究青年子弟の敎
育に金を投〓〓る者あるや其他社會公共の爲めに〓〓以上の美事をなしたりと云へば皆官
命に與儀なくせられ一種の租税と心得たる寄附献金の類にして其奮發は偶々以て自尊自重
の主義を辱かしむるもの此々然る所にして到底文明社會の財産家たるべき資格を有するも
のに非ず錦衣の馬子と云はれても一言の答辨なかるべし
開明日〓の今日に當り實力なくして財産を掌握する此等の富農豪商は今後果して如何なる
境遇に立至るべきや相替はらず富豪を專らにすべきや否やは一の問題なれども我輩を以て
見れば是れは决して永續す可きものにあらずと豫言する者なり元來日本には士族と云へる
一種族ありて學問智識のことは殆んど其專有に屬し隨て其精神心術も遙に他の農工商民の
上に擢〓でたりしが故に武門武士解職の今日と雖も猶ほ依然として其特色を存し文明の學
問の輸入するや早くも之〓〓〓〓裕々知見を開發し身は窮すと雖も〓に大に爲すあら〓〓
〓するものゝ如し盖し智識は今の世界の達〓にして即ち智力競爭の最中なれば曩に士族が
封建の常〓〓を失ひたると共に農工商民が舊夢の未だ醒めざるに〓を〓〓内に切込みて次
第に之を壓倒するに至るやも知る可らず否な現在の事實に於ても目前瑣末の小〓に付ては
士族の商法とて恰も失敗の異名の如くなれども之れより以上大仕掛の業となり智識を要す
るものに至れば事の〓商を問はず大抵士族の經營に係り〓〓は當〓に得意にして世に爭ふ
ものはなかりし富農豪商も一切〓なく〓〓せられ〓〓に瞠若〓して復た顏色なきは我輩の
毎度見聞する所なり若しも此等の富農豪商にして文明の趨く所を看破し〓局の〓〓と共に
心身を〓〓して益々自家の事業を擴張するの見識なりしならんには彼の貧窮士族〓〓〓〓
今日に〓めくことを〓〓しめ〓や〓無氣無力の農商が素町人土百姓の心情を蝉脱すること
能はざりしが故に其專有なりし領内を略せられ脚下に火の起るを見ても驚くを知らざるの
罪に坐するのみ之に由りて觀れば今後士族と彼の富農豪商との榮枯盛衰は略ぼ代謝の數を
算するを得べし若し夫れ社會の表面に顔出しするを以て富豪の任務と速了し政治家の氣風
を気取りて無意に狂奔するに至ては益々策の拙んzるものにして年歩の貧書生に愚弄せら
れ豪農の顛覆を速にする計りなれば〓財の方向を知るの智識を研くと同時に守成の才能を
養ふは正に富豪家諸氏の急務あるべし