「・流行の壓制」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「・流行の壓制」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・流行の壓制

壓制と云へば政治に限るものゝやうに聞ゆれども人間社會の風俗習慣を以て人々の言行を心の思ふがまゝに任せざる其有樣は政治の力よりも却て強大なるものあり米國の如き政治の自由は世界第一と稱して爭ふ者なしと雖も其風俗習慣に至りては國人をして敢て犯すを得せしめず一毫の微も之を犯す者あれば其社會の中に居るを許されず左に記すは紐育へラルドの拔萃譯にして彼の國に流行の言なるを示したるものなり一見奇なるが如く又愚なるが如くなれども退て考ふれば我日本國に於ても同樣の事相なきに非ず例へば封建の時代に諸大名の奧に奉公する女中の禮儀作法、衣裳の取廻はし等緻密周到、厘毫の反則を許さずして犯す者は忽ち仲閒に齒するを得ず又武士の心掛けと稱するものの如き其外見粗暴なるに似たれども坐作進退常に武道の要を忘るゝことなく鯨飮泥醉前後を知らざる其中にも武士は則ち武士にして双刀の帶法を誤り刀を道に遺失したる者あるを聞かず況んや其平生に於てをや一言一行一進一退も武家固有の風采を失はず若し萬一も其邊に如何しきものあれば武士の廢物として風上にも置かれざるを常とす武家にして斯の如くなれば他の種族にも自から固有の風習を存して之に從はざるはなし左れば今米國に流行の壓制甚だしと云ふも吾々日本國人が封建時代の事を思へば又驚くにも足らざるが如し唯今日の日本は人事變遷の最中にして恰も習慣流行の未だ體を成さゞる時節なればこそ他國の風を見て奇異の感を爲すのみ

ヘラルドの記事に云く時々の流行を追ふて油斷なしと稱する某令孃が此頃ニユーヨーク新聞記者に會して語次に云ふやう記者足下は時の流行に後れざる人と爲るを以て容易なる事と思召されんなれども這は實にむつかしき大事にして左る代りに不斷これに心掛けて怠らざるときは又それ丈けの報もあることなり扨何事にても一度世の流行を成すときは其勢は恰も奔流の低きに就くが如く之を遇めんとして遇む可らず又これより遁れんとして遁る可らず斯く話す一分一瞬の閒と雖も皆夫々當世風の流行規則ありて嚴重なる掟の下に制せらるゝが如し例へば午後保養馬車に乘りて運動するにも流行を追ふ娘の子は小心翼々終始當世に通用する規則の中に一身を奉じて束縛せられざるはなし先づ車中に坐を占むるや注意して仔細に形容を取繕ひ、手に持つ日傘をばお定まりの角度に傾け爰に於て始めて進行を命ず抑もこの形容の取繕ひに精神を凝すは流行社外の凡眼を以ては窺知る可らざる程の微細に達し夫より馬車の快走中も道すがら後を振向き又己れの身容を見る抔は孰れも現行の流行規則に背くの罪として之を愼まざる可らず左れば車上の令孃は其形容痴なるが如く又死せるが如く恰も達磨の壁に面するが如くにして始めて流行社會の要訣を得たる者と知る可し主娘の心得右〓〓〓〓〓れば御者も亦從て流行規則を順奉し巧みに〓〓〓〓〓繰りて車中の主人に其容姿を保たしむる樣〓〓〓〓せざる可らず斯くて主娘は己が成す所に〓し〓〓〓〓〓も既に十分なりと思ふとき手づから車中の〓〓〓〓〓れば之れを指圖に御者臺の上に威張反たる雛人形の如き御者は鞭を兵士の鐵砲の如く持ち構へ徐ろに轅を轉じて馬首既に歸路に向へば再び鞭を持爲して馭法亦前の如し、己が氣儘の保養さへ自由の國に自由の身の不自由なる事件の如し左れば又車より出るも嚴重なる流行規則あること勿論にして頭を先にし體を前に屈する抔は大に現行の流行に違ふものなり合式の流行敎育を受たる婦人は先づこの片足を車の踏臺の上に達せしむる迄は悠然と構へて座を離れず一足臺に達して始めて少しく腰を持上げ全身の重量を踏臺に委ねて下なる石段の上にやさしく濘り下るなり

お極まりの流行法律の外に隨伴せる條例も亦尠なからず例へば宴會の席上に酒を欲せざる時は己れの酒杯の中に手袋を投込む事より又芝居見物の座に於てその看棚は舞臺に接近し演技を觀るに苦まざるも態と苦しむ者の如くにして雙眼鏡を用ふる抔に至るまで常に變遷して止まざる種々樣々の流行あり歩行法の如きも毎流行期に同しからず今私は時の令孃達が何樣にまで其歩法に心を凝して流行海の泥に醉ひしかをお話し申さんに足下は定めて御承知の事ならんが數期前にアレキサンヅラ跛脚行と云ふ流行を催ほし〓り私は當時未だ若うして流行社會に在らざりしと雖も私の姉は恰も其流行規則に制せられて一方の靴の踵を一方より高くし歩行の節は必ず合式の如く跛脚行を引きながら歩めり又音聲の出し方にも流行の定則あり、暖手套を携ふるにも流行あり、日傘雨傘を持つにも流行あり、知人に逢ふて首肯にも流行あり、加之私の見る所にては眠り方にも亦流行ありて流行の壓制は蓋し法律の及はざる獨身獨眼の寢所にまで達したるものゝ如し政治は猫よりも優しきに流行は虎よりも猛なりと知らる可し尚ほ流行令孃が美にして肥えたる右の手は左の手の腕首の少し上の處を最と和かに握り纎指の頭は隱れて風に吹かるゝ筒袖の下にありしはツイ此頃の事なりしに今の流行に隨へば談話中は手を中腹の邊に保ち然して手袋は脱し居れり、然れども少し以前には私もイヴアンジエリーン形(米國の詩人ロングフエツロウのイヴアンジエリーンと題したる詩中の美人)に則り雙手を腰掛けたる膝の上に握り合して置き居れり其又以前には左手の指以て胸下のボタンを弄ぶこと一般に流行したりき

偖是等の細かなる流行の源を語りなば足下は定めて一驚を喫しもせられんが未だ程立ぬその以前に芝居見物の令孃達は恰も其兩眼を用心するが如く手袋を嵌めながら右の手を擧て額にかざし居りたり今その流行の由來を探ぬるに珍しや其頃或る金滿家の娘に

して而もその人は流行社會に錚々の名を鳴らし正に是れ一個の流行女將軍にてありけるが月に叢雲の喩に漏れず幼少の時期〓〓過ちに右の手を傷けたれば爾來その疵痕を覆はんが爲め毎に手袋をはめたり然れども天然の美は〓〓顯はれ一小紫痕の爲めにその全手の美を空しうす可らず纎手は見せたし疵痕は隱したし、起つ居つの試案の中に女將軍は一策を案じ芝居見物の機會を幸ひに棧敷の中より彼の纖手を人に誇らんものと屡々鬢のあたりに手袋を嵌めたるまゝ右の手を擧げて輕く巧みに鬢髮に触るゝを以て常とせず左れば滿場の娘軍如何で之を見逃す可けんや將軍の計畫唯疵を隱すに在りと雖も其姿は則ち學ぶ可しとて是に於てか三軍擧て右手の審美を示さんとし扨こそ手袋のまゝ額に手をかざす流行の起源とはなれり

狂か愚か私は知らず私は唯世の流行に後れざるに勉むるのみ私は唯世と上下浮沈するのみ否な之を遁れんとするも遁る可らざるなり然りと雖も實に吾々を惱殺する者は私評して精神の流行とも名つく可き所のものにして時に流行する無形の智識の變幻極まりなき其有樣は之を尋常一樣の智識に比して大に趣を異にせり足下請ふ笑ふ勿れ此智識は右進左行一定の止處なく唯己れの無學を全く充分に掩ひ隱すか、又不充分ながらも之を掩ひ隱すに足る程の心得方にして交際社會には甚だ重寶なるものなり而して其流行も亦他の有形物の流行の如く時に隨て趣向を改め或時は盆栽の風致と爲り又或時は古銅器物の鑑定と爲り又或時は古書畫寶物等の探索と爲り何れも當局者の無學無識を瞞着するには屈強の仕事にして此種の瞞着術に志す者は最近の小説はザツト一讀せざる可らず新繪畫の共進會又は古書の展覽會等へは屹と出席して熱心の風を裝はざる可らず常に此邊に注意して一物の微と雖も等閑に附す可らざるなり

私は今年圖らずもレント(耶蘇式に在る四十日の齋日)に遇ふて心中大に悅びたり若し然らざりしなば私の寡聞なる何として彼の大統領の就任式尋で米國獨立の百年祭等を人に嗤はれもせで無難に經過する事を得んや百年祭の事あるや凡そ二週閒以前より私は毎夜數時間眼を米國の歴史にさらし斯國獨立の所以を一通り記臆して例の百年祭に流行士女と對談して恥しからぬ樣にせんものと一心不亂に身の疲勞をも顧みず屡々私の兄弟又は附きの女中に意見せられて寢室に提携せられし事あり今にして之を思へばその閒の勞苦はなかなか言語に盡し難し唯流行社會に〓斥せられまじと思ふ一念の凝て此勉強勞苦を惹起せしものなり斯る中レントに際會したれば之を口實に諸宴會の虎口を遁れたるこそ勿怪の幸なれ

今や私は正銘無垢一點の非も打ち難き古器珍物をも所有し其外舞踏會宴會等に用ふる衣服も新調して禮儀作法も流行形を覺えたれば心身共に流行社會に仲間入する丈けの一人前の女子とはなれり若し斯くせざれば私は當國貴紳士女の社會に入れられずして罪を法律に得ざるも一人前の權理を上流社會に保つ事能はざる可し云々