「 養蠶家の注意 」
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時事新報に掲載された「 養蠶家の注意 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
養蠶家の注意
近年來我國にて養蠶の流行は實に驚く可き程の次第にして全國到る處に其談を聞かざるはなし蓋し利の在る所、誘はずして自ら之に赴くは世間の情にして水田を=して菜畠となし耕作を輟めて養蠶に從事する等その流行の勢は中々盛なれども損益得失は人事の常にして一方に利するものあれば又一方に損あるを免れず間々失敗に懲りて其事を思ひ止まるものなきにあらず通常の事にして怪しむに足らざる所なれども區々たる小失敗の爲めに折角流行の氣勢を挫くこともありては由々しき大事なれば世の之に從事する者の爲めに聊か前途の望を述べんに抑も養蠶の事たる桑を伐り虫を養ひ之を繭に仕上ぐるものにて百姓が田を耕し種を蒔き苗を植ゑ之を耘ぎりて收穫するものと毫も異なることなし即ち純然たる農夫の業にして労働者の賃銀低くして且手端の業に熟練すること日本の如き國柄に最屈強の仕事なれば他に之を爭ふものとてはある可らず好し又今後日本の工業次第に進歩して賃銀の割合西洋諸國と甚だ懸隔なきに至るの期ありとするも凡そ國々固有の業は年來習慣の力に依るものにして西洋諸國が今に至りて急に事を企てんとするも多年の習慣は容易に之を許さざるのみならず前に云へる如く養蠶は一種の農業にして器械の應用も叶はず恰も人々の手練に屬することなれば分業分労法の正しく行はれて器械の用法に慣れたる労働社會には容易に興る可らざるや明なり現に伊太利、佛蘭西などは從來の養蠶國にして其絲質も至て良好なれども逐年差したる進歩の樣子もなくして歐米一般に東洋産の輸入を仰くの事情を見ても之を知る可し左れば養蠶は我國特有の業なれば今後ますます其隆盛を期す可しとして扨世界に蠶絲需用の道は如何と尋ぬるに前途の望、多々ますます大なるを見る可し盖し外觀の美を好むは人間の天性にして古今野蠻の人民衣服の用を知らざるものにても自ら身體に丹靑して美を誇るの事實あり人文の開明は奢侈の風を促し社會の外觀次第に華美に赴くに隨ひ人々衣服の美を爭ふに至るは亦自然の勢にして而して今の世界に人の衣服として用ひらるゝ木綿、麻、=毛、絹の四種に就て其品質の雌雄を吟味すれば絹の自然に光澤を帶び其質の精細なる==之を着して肌觸の滑かなるは實に天下の一品にして=====などの及ぶ所にあらず况んや木綿麻の===てをや左れば世界何れの處の人にても絹を着る事を好まざるものはなき筈なれども今の西洋諸國に於て未だ一般にその流行を見ざるは唯供給の多からざるが爲めなるのみ然れども世間奢侈の風と共に絹を好むの念も亦ますます長ずるは疑もなきことなれば我國の生絲は世界萬國を相手と覺悟して其前途に失望ある可らず試に太平洋對岸の北米合衆國を見れば其人口の増加すること年を逐ふて際限あることなし人口増加して殖産興り又隨て奢侈の風も流行して是れ亦際限ある可らざれば我生絲販賣の市塲は差當り米國のみを相手にしても供給多きに過るの心配はなかる可し左れば今日の養蠶事業に時としては小挫折もあることならんと雖も更に眼界を廣くして前途を眺むれば其多望なること春海の如きものなれば我輩は一意その進歩發達を促して他を顧みざる者なり (未完)