「 探偵論 」
このページについて
時事新報に掲載された「 探偵論 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
探偵論
壓制の爲めに探偵を用ふるものあり仁惠の爲めに之を行ふものあり其目的は唯爲政者の方寸にありて存すと雖も凡そ政治を施こすには國内の動静を詳かにするこそ第一要義なれば探偵の必要なるは申す迄もなき次第にして時に或は陰險の所爲を以てするも亦未だ必ずしも咎む可らず佛帝ナポレオン第三世の時代は世に探偵の最も能く行屆きたるものにして一方より之を評すれば自由湮滅、道路目を以てするの有樣なりしかども治世の成績より之を見れば盛華赫々四隣に耀き渡りて其威名は世界に轟きたるに非ずや若しも目的の美なるものは之に達する方便の醜を抹殺するに足る可しとすれば一任探偵を嚴密にして多少壓制に傾くことありとても實際に於て何かあらん國榮え民富みて世界に向て其光榮を擔ふことを得れば我輩は寧ろ之に滿足せんと欲する者なり或は然らずして政治の一動一止悉く道理の正面より演繹し來りて恰も窮屈なる雛形の中に押籠め去るが如きは腐儒に非ざれば白面書生の空談にして世態人情の舵を取るべき政治の眞味を解せざるの過のみ我輩は政治家に向て漫に探偵の使用を咎むる者に非ざるなり
右の如く探偵の使用は今の政治に必用にして其効能も亦時として大なりと雖も扨これを用るに當り如何なる政治家にして之を利す可きやの問題は頗る思案を要する所のものなり抑も探偵は政治家の秘術なり秘術は一個人の方寸に秘す可きのみ他人と共にす可らざるは事の性質に於て明白なれば一國施政の權柄を唯一人の手に掌握し一人の心を以て萬機を左右すること彼のナポレオン三世の如く又今の獨相ビスマルクの如き地位の人にして初めて實用を爲す可し苟も二人以上聯合して義兄義弟の地位に在る政治家が他の獨裁君相の顰に傚ふて探偵を用ひんとするときは甲乙丙丁おのおの其探らしむる所の方向を異にして異種異樣の事實を摘發し來り相互に衝突して民間の動静黒白を辨ずるに由なきのみならず其探偵の頂上に上りて甚だしきは他人の擧動を探りながら其身も亦他に探らるゝが如き奇相を呈し其内心に於て陰に相反目するの患なきを期す可らず斯の如きは則ち探偵は外情を探るの具たらずして却て内情を苦々しくするの媒介たる可きのみ我輩の最も取らざる所なり方今我政府の筋に於ても探偵は隨分密なりと云ふ然り而して政府の中に一個のビスマルクありて探偵も亦唯この一個人の方寸より發して探り得たる事實は集まりて其方寸に收まるか甚だ妙なりと雖も或は然らずして幾名の當局者が思ひ思ひに探偵を放つか、若くは探偵なるものが一種定式の事務と爲りて恰も獨立の運動を逞うし次第に精密を致し次第に上邊=上り意外の奇談を探出すが如きありては其奇談は政治上の得失に利することなくして却て隱然たる苦情の原素たる可きのみ事物の利弊相伴ふは人間の約束にして我政府の探偵至極密なりと聞き或は其利に伴ふ弊はなかる可きやと老婆の心敢て一言を呈して當路者の注意を促すのみ