「 華族の財産 」
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時事新報に掲載された「 華族の財産 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
華族の財産
華族は帝室の藩屏にして社會の上流に位するものなれば其學問智徳の衆人の標準たる可きを要するは勿論、其家門の品格を維持して眞實藩屏たるの實を擧んとするには第一に財産の豐なるものなかる可らず左れば政府にても夙に此點に注目し曩に世襲財産法を定め土地公債證書、又は特別の監督に屬する銀行會社の株券を以て之に充つる事を許し而して賣却譲與もしくは質入書入をなすことを禁じ又は負債の抵當として差押ふる事を得せしめざる等大に注意を加へたるものゝ如し而して其保護の厚きは猶ほ之に止まらず近來世間に噂する官設鐵道拂下の如きも其重もなる理由の在る所は華族保護の一點なりと云ふ抑も政府が華族に對する厚意深切はかく一方ならざれども扨華族の方に於ては能く其厚意深切を無にせずして財産保護の道を盡すやといふに今日の處にては其財産を管理する家令家扶の輩も多くは舊藩臣にして君臣の情誼に厚きが故に一心主家の爲めのみを謀り理財の法も敢て眼前の利を貪らずして務めて確實の道に由る等その注意至らざる所なく且つ其令扶の中には主人の幼時より師傅の役目を務めたるものなどもありて自ら其放縱を制し冥々の中に家風の紊亂を防ぐの功も少なからざれども追ひ追ひ年所も經過し令扶その人は新陳代謝して家事に任する者は必ずしも舊臣ならず假令へ或は其由緒あるも所謂君臣の情誼は漸く冷淡に赴く其中に主公はなまなか世情に通じたる覺悟にて傍より家政に容喙するなど却て自ら家の秩序を破るの端を開くものなしとも云ひ難し然のみならず世間射利の徒は此有樣を見て以て奇貨居く可しとなすものも少からざれば旁々以て華族の財産維持法は今後ますます困難の塲合に遭遇するものと覺悟せざる可らず或は世襲財産法の在るあれば斯る心配は無用なる可しと云ふ者あれども奇變限りなき今の世の中に唯一片の法律に依頼して大家の榮光を萬世に保たんとするは迂濶の至りと云ふの外ある可らず又營業の利に依て以て華族を保護せんとするが如きは徒らに世間の物議を一族の上に招きて王室の藩屏たる徳を傷くるのみならず利の在る所は人の注目する所にして爲めに世間利名の徒の心を動かし或は御家の騒動の利を蒔くことなどなしとも云ひ難し殊に特別の榮爵を有する其上に又特別の利澤に浴するときは社會羨望の府となるは免る可らざれば所謂特別の保護なるものは却て特別の攻撃を招くの媒介と爲りて永久に保護の實を全うすること能はざる可し左れば今後の社會に華族の財産維持法は如何にして可ならんと云ふに我輩は先づ其第一着手として舊藩地移住の事を勸告せざるを得ず(本篇に華族といふものは大名華族を指すものと知る可し)扨て舊藩地に移住したる上にて其從事す可き業は一家の爲めには殖産興業等土地の情况に應じて夫々の仕事もある可く又社會公共の爲めには學校教育等の事もある可くその經理す可き事は種々あることならんなれども財産維持の一點よりして其注文と云へば我輩は華族諸君が其資本を土地の買入に投ぜられん事を勸告する者なり今日の有樣にては土地の收益は之を政府の公債證書もしくは銀行會社の株券に比して甚だ薄きことならんと雖も若しも今後永久の利を計らば其安全にして確實なる土地の所有に及ぶものある可らず况んや土地の利益甚だ薄しと云ふも一時の變態に過ぎずして早晩回復の望なきにあらざるに於てをや而して買入の一段に至ては舊藩主の餘蔭に依て其便利も少なからざる事なれば今の中に舊藩地に移住して土地を買入れ之を世襲財産として子孫萬世の計をなし世上營利の事に關せずして永く家門の榮光を保つの工風最も肝要なる可し然るに人或は反對の説をなして華族の舊藩地に移住して殖産興業に從事するは則ち可なりと雖も土地を買入るゝの一義に至ては如何ある可きや左なきだに今の小地主は土地を持堪ふる能はずして動もすれば他の兼併を恐るゝ塲合に當り舊藩主の餘光を以て之を買入るゝとあれば一も二もなくその併せらるゝ所となり地方に哀れなる小作人を見るに至る可しと云ふものあり勿論我輩の宿論に於ても土地の所有は成る可く均一にして大小懸隔の甚しきに至らざる事を希望する者なれども左ればとて經濟社會の事は人爲を以て制す可らずして區々たる小百姓の所有地が遂に次第に資本の豐なる者に歸するは自然の成行にして他より駐む可きにあらざれは之を其成行に任せて唯利是れ目的とする紳商輩の手に歸せしめんより寧ろ數百年來の餘情猶ほ温かなる舊主人の有となし地主小作人の契約外に自ら一種の情緒を存することは决して雙方の不利と云ふ可らず或は事の極端を畫き舊主の威光を以て細民を壓するの弊もある可しなど云ふものなきにあらず實際にはあるまじき事なりと思へども好しや萬一之れありとするも斯る塲合こそ即ち法律契約の入用なる處にして封建の舊縁故は以て文明の法理に敵す可らず人民たるものは唯その出る處に出でゝ正理を爭ふの覺悟ある可きのみなれば斯る心配は始めより無用なりと知る可し左れば我輩は華族の財産維持法は第一舊藩地に移住し愈々移住の其上には土地を買入れて之を永久に保つの一事に外ならざる可しと信ずるものなり