「賄賂事件の公判」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「賄賂事件の公判」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

賄賂事件の公判

曩に東西新聞が東京府會の賄賂事件に付其紙上に記載したる文中大岡育造氏を誹毀したる廉ありとて同氏より告訴せられ過日來東京始審裁判所に於て公判を開きたりしが此事の關係する所は中々廣き樣子にて或は少なからざる怪我人を生ずることあらんかとて世間に評判する所なり蓋し一府の利害を代表する其議員にして賄賂に眩して論鋒を枉げたるを事實とすれば是れこそ以ての外の心得違にして啻に當人の汚辱のみならず一府の迷惑此上ある可らず一府の迷惑は猶ほ忍ぶべし從來〓々政府の措置を論難したる民間の士人が代議制度の美を主張しながら其議會に於てあるまじき卑劣を犯したりと云へば人民より組織する所の凡ての議會に汚點を添へるの姿にて威信と名譽を損すること容易ならず國會も先づ以て斯樣のものかと見下げらるゝに於ては誠に遺憾の至と云ふべし左れば裁判官も特に心を用ひ事の證據を漏れなく詮索して實否虚實を明かにし黒を黒として罰し白を白として疑いを解かんとするは流石に當局に人ありと云ふべくして我輩の感服する所なり然りと雖も事件は未だ落着に至らずして賄賂の授受分明ならざるが故に何人も之を是非すること能はず唯その虚傳ならんを祈るのみなれども日々紙上に現はるゝ公判の筆記を見るに我輩は實に見て見るに堪へざるの感なき能はざるなり元來事の起りは賦金の存廢沙汰にして其性質の既に醜猥なるのみか之に關係ある人々の〓止擧動を始め其相談に付ての言々句々を記載したる中には〓々奇怪なる文字甚だ多くして若しも賦金とは云々の意味なり何々とは斯樣斯樣のことなりとて一々これに註釋を付して示したらば彼の公判筆記こそ汚臭芬々として心ある人は直ちに嘔氣を催ほし耳目を蔽ふて走るべし青天白日御座に差出して見られ得べきものに非ざるなり况んや之を歐文に飜譯して是れが府會に係る裁判事件の一なりと云はゞ外人は如何なる感覺を催ほすべきや我輩は筆記を讀んで覺えず冷汗を催ほしたる所以なり

然りと雖も裁判官は猶ほ醫者の如し其身は無病清潔なりと雖も種々の難病を診察し臭氣鼻を衝くものにても忍んで之に接して治療に法を盡さゞる可らざると均しく其職掌に就て既に法律を司る上は或は泥棒を審問することあらん或は詐欺師を對手とすることあらん固より役目の然らしむる所にして今回の事件も既に裁判沙汰となりたる上は事實卑猥に屬すと雖も辭す可らず〓汚酬に渉ると雖も避く可らず宜しく充分に事實を詮索して判斷を誤らざる樣注意すべきは申す迄もなき所なれば決して裁判官に向て審問の曖昧なるも苦しからずと云ふに非ず又我輩とても平生我國の德風の廢れたるを〓ひ不德男子の項門に〓針を加へたるは〓々のことなれども其〓行内事の〓〓なる點に至ては筆〓の汚れんことは〓〓又〓會の〓〓を害せんことを惧れて常に自ら愼みたる程の次第なれば今回の事件も賄賂の實否如何は姑く擱き其實否を明にせんとするの途中に無限の醜聲を放ち本件を別にしても聞くに堪へざる塲合も多かる可きことなれば我輩は人間世界の體裁の爲め斯る汚醜を公にするを好まざるものなり就ては頃日同事件に關係する證人の申立に僞證の廉ありとて更めて之を豫審に附し其終結するまで公判を中止したるこそ幸なれ今度再び開廷のときには傍聽を禁して裁判官限りに詮議を遂るは穩當の處分なる可し最後に至りて黒白何れにか決定したらば夫れにて世人は事の趣を推察するに足る可きのみ我輩は豫審終結後の公判は猶ほ一層の醜を呈して殺風景ならんことを危ぶむものなり