「北海〓鐡〓」
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時事新報に掲載された「北海〓鐡〓」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
北海〓鐡〓
昔し或る者功家あり國を開く三要訣を得たり或る人試に第一を問えば答えて〓路なりと云う更に其第二を問えば第二も亦〓路なりと云う然らば第三は如何と問うに第三も矢張り〓路なりと答えたりと云う是れは古風の問答にして今の開國要訣を説くものは單に〓路と云わずして之れに入れ換えるに鐡〓の二字を以てし第一第二總べて鐡〓を以て答えることならん現に歐米文明國の實際を見るに都會人家の立ち〓みたる塲所は木〓石〓砥の如く人馬〓來の筋を分ちて雨に泥〓、風に塵、〓行人の〓惑を來す等の塲合なく山村僻落に至りても市街の手入れは行き届きて毎度感心することなれども都會と都會、村落と村落とを聯接するものは唯一の鐡〓あるのみにして古〓は有れども行く人なく或は已に荒廃に委して牧塲田野に化したるものあり郊外〓歩〓動の地、馬を〓り馬車を〓むる者の外は一寸隣村に赴くにも四〓八〓の鐡〓ありて誰れとて之れに由らざるものなく國〓官〓縣〓等特に區別を立てずして唯一の鐡〓即ち唯一の國〓たるものゝ如し〓頃歐洲の或る論者中に國〓は政府の持つものなり今の鐡〓は國〓なり故に鐡〓は政府の持つものなりとて偏屈なる三段論法を構え鐡〓を官有に歸せんと論ずるものあり國〓は何故政府のみの所持す可きものなりや今一層その論礎を固めざれば右の論法は無効たるを免れざれども鐡〓即ち國〓なりとは疑う可からざる事實にして歐米文明の國々に此思想の〓に普〓なるを見る可きなり然るに我が日本にては今尚お開國の古要訣を守りて普〓〓路を開〓し又之を修繕するに多額の金を費すものあり斯くて〓〓平夷に歸して路傍に〓紀念碑を建る間もなく官私鐡〓の建築師は更に便〓を測量して之を其線路と爲し〓て鐡〓開〓すれば復た並木の街〓を行くものなく多くの金と多くの人夫とを費して折角修築したる街〓は空しく草來に埋めらるゝのみ現に福嶋縣の如き〓路縣令のお蔭を以て縣下〓路の立派なること日本國中比類なき程なれども鐡〓線路に隣したる〓路は目下次第に荒癈に歸する趣ありと云う聞く所に據れば北海〓にては十餘年來〓に二百餘里の〓路を開き人馬〓來の便に供したれども如何せん荒〓新拓の地なれば夏季中〓〓を生じ易く立派なる〓路も忽ち原野の觀を呈して人亦之を〓來することを好まず之れに反して幌内鐡〓の沿線は江別、幌向、岩見澤、市來知等を始めとして人口〓殖地價騰貴その〓歩頗る著明なりとの報〓あり即ち一時の方便を以て間に合せの〓路を開〓し之を荒癈に委せんよりは前〓永〓の計畫を以て始めより鐡〓を開〓し鐡〓即ち〓〓の主義を實行すること開拓事業百年の長計として我輩の夙に賛成する所なり回顧すれば北海〓の事業も已に二十年の歳月を〓し人事の經驗漸く熟して開拓の時〓到來せしものにや〓來其事業に經歴ある者若くは商工業に〓練なる人々が北海〓炭〓鐡〓會社なるものを發起し室蘭より岩見澤に至る八十五英里岩見澤より空知の炭山に至る二十六英里を併せて全線百十一英里間の鐡〓を作り〓ては上川郡忠別を經て線路を根室方面に延長し上川、立知、兩龍、樺戸、夕張の諸郡即ち石狩平原に鐡〓を貫〓せんとする計畫あり此石狩平原の地積は二億七千四百八十萬坪と稱し一戸一萬坪と割り當るも尚二憶七千餘戸を容るべく又之を開墾し盡くして凡そ九萬町歩の農圃を得、其一段歩に三圓つゝの農産物を生ずるものとすれば年に二百七十萬圓の〓穫ある割合にして此平原に鐡〓を起すは殖民地上に於て最大無上の利益なれども如何せん今日にては一蔕廣漠たる原野にして乗客貨物のある可きようなく當分〓支相償わざるが故に鐡〓資本を五百萬圓とし更に百五十萬圓を以て炭礦鐡〓兩事業資本六百五十萬圓を打して一丸の會社と成し事業の漸く緒に就くまで其營業資本に對して政府に年五朱の利子保證を仰ぐ見〓なりと云う今假りに此保證の利子を年に二十萬圓と見積るも十箇年に二十萬圓にして從來の開拓費額上より見れば左〓の巨額と云うことを得ず且つ北海〓廰に於ては今明治二十二年度より向い五箇年間に於て〓路橋梁排水堤防並に下水設置の爲め凡そ百三十四萬七千八百五十餘圓を使用する見〓みなりと云い苟も〓輸交〓の便を助けて全〓の開拓繁昌を〓す可きものは其出費の多きをも顧みざる程の塲合なるが故に開拓の時〓も漸く熟し彼の鐡〓の利機に由りて大に交〓の便を開き人に富源の手掛りを與えて移住殖民の數を〓し且つ其沿〓の地價を高めて結局全〓の繁榮を致さんとする今日、年に二十萬圓位の利子保證は固より算するに足らざるなり今日新地を開拓する要訣は唯一の鐡〓あるのみ而して我が北海〓開拓に經歴ある又熱心なる有志諸氏が着眼正に此に及んで其起業の端を開かんとするは畢竟時〓の到來せしものにして我輩は〓〓開拓策の長短如何を問わず唯今後に發起するものが果して能く其目的を〓して事を大成せんことを望むものなり