「山縣伯の歸朝」
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時事新報に掲載された「山縣伯の歸朝」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
山縣伯は歐洲の政治及び軍事を視察するの目的を以て曩に洋行の途に上り歐洲到着後は伊
佛諸國を巡遊して獨逸に至り同國にては地方制度取調等の用事もありて滯在最も長かりし
が是れより進んで露國に入り歸途歐洲大陸の國々を巡覽して追て更に英國に渡り在外凡そ
十箇月半、米國を經て今般目出度歸朝したり聞く所に據るに伯は歐洲滯留中巡覽時日の短
きが爲め充分其視察を果さゞらんことを恐れ外形上の見物も氣根よく勤めて怠らざりしと
同時に其隨行員の如き兎角長官の威光に畏れて直言を憚るの趣もあらんとて海外在留の日
本書生若くは紳士等と面唔して其直言を聞くことを好みたりと云ひかたかた以て其見聞を
擴げたるは勿論にして短時間の旅行とは申しながら漫然として行き漫然として歸るものに
は非ざるが如し特に伯は我が政治家中の錚々にして内に在りては内務大臣として内閣重要
の位地を占めたる人にして今や歐洲の政治を視察し久し振りにて歸朝したる事なれば我が
政治社會に於て恰も一將星を現出したるの姿にして世人の之を凝望するは固より謂れなき
に非ず左なきだに彼の條約改正の問題は斷行中止の兩派に分れ論鋒殆んど互角にして遽に
其勝敗を决す可らざるの今日、新洋行歸りの伯の意見は兩派何れに向ても異常の勢力を
減す可きものなるが故に伯の一擧一動は世人の細に注目する所にして歸朝匆々伯は何事も
試む可きや想像は人に依りて異なる可しと雖ども我輩の忖度を以てすれば伯は第一着手と
して政府部内の調和を試むるならんかと思はるゝなり今内に居て國事を思慮すると海外に
在りて之を觀察するとは其趣自から異にして身は日本社會に在りて直接に政治の事に當り
威權力を爭ふときは私情私慾も其間に動きて自然情慾の奴隷となり日本國の榮利を思ふ
て世界各國人の評論を恐るゝの念も次第に薄らぐの趣あれども廣き世界を遊歴して其の眼
界を濶大にし遠方より内を顧みれば身を局外に置くの故を以て所見も自から公平に歸し日
本全國を一つに丸めて其全體の利害を思ふの念を切にすべし即ち人心の自然にして山縣伯
の心事の如きも亦この自然法に支配せられたるや疑を容れず斯くて伯が濶大の眼、公平の
心を傾けて今の日本社會を觀察したらば殖産は振はず商業は進まず鐵道の延長も思ひの外
手間取れ開港塲には今以て船渠棧橋の設けなく陸海軍も不整頓にして軍艦砲臺の備も立た
ず其他學問藝術等改良進歩を要するものは天下此々として皆な是れなりとも申すべく之れ
を振起して着々國歩を進めんとすれば官民協和上下一心、日も亦足らざる可き筈なるに然
るに今日の有樣を見れば國民政治に熱中して政治以外に國事あるを知らず政治を職とする
政治家は勿論恒の産なき無頼漢までも漫に政治に狂熱して黨派の嫉妬は水火の如く政府部
内の人々までも隱然その徒黨を分ちて軋轢ますます甚しからんとするの勢あり今此勢の成
行に任せて來年第一國會の開塲に至りたらば事態兎角穩かならずして爲めに國安を妨ぐる
ことなきや我が立憲新政體の面目を全うして世界各國に誇ることを得べきや我輩の一念國
の爲めに不安に堪へざる所なり抑も彼の條約改正の事は國家重大の問題にして中止斷行そ
の議論の區々たるは固より當然ならんなれども中止斷行何れを問はず政府當局の人々が諸
外國其向きの局部に向て夫れ夫れ談判する其際に内部の議論に衝突を生じて内に顧みるの
患あるが如きは國家のwに非ざる可きなり畢竟内國に局促して眼界狹き人々の所爲たる
を免かれざるが故に久しく國外傍觀の地位に立ち今度歸朝したる山縣伯は其第一着手とし
て先づ政府部内を調和し内を固うして外に臨み當局者の方向を一にして着々歩を進むるの
道に由ることならんか我輩は後來伯の擧動に徴して其果して然るや否を知らんと欲するな
り回顧すれば明治六年頃、政府に征韓の議論ありて是非紛々たる其際に岩倉大使の一行は
歐米回覽を終りて歸朝し西郷大久保の諸氏を始め其議論を異にして政府部内に不和を生ず
るの勢を呈せしかば當時大使と共に歸朝したる故木戸内閣顧問は痛く其不和を憂へて一書
を政府諸公に示し今の世界は弱肉強食、國内の人心調和せざれば徒に他の覬覦を招きて自
から亡國の端を開く可し云々とて彼の波蘭亡國の事を引て國内調和の大切なるを説きたる
其一片憂國の心は當時不幸にして貫徹せざりしが如くなれども顧問が社稷の臣として國に
致すの忠誠は皇天后土の照臨する所、萬古人心を感起せしめたり盖し山縣伯歸朝の今日は
木戸侯歸國の昔年と社會の事態境遇等固より同じからずと雖ども政府部内を調和して上下
一心國事の重きに任ず可きは今日に於て特に其必要を見る可しと信ずるが故に我輩は山縣
伯が今日歸朝の際に於て故木戸侯の遺意を繼ぎ侯が千古の知己たらんことを祈りて世上有
識の士と共に窃に仰望して已まざるものなり