「信用の虐用」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「信用の虐用」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

信用の虐用

商工取引一切の事務に信用の大切なることは今更申すに及ばざれども凡俗の常情動もすれば其信用を廣げ過ぎて自然不手廻りの箇條を生じ貸借上に執務上に言行徃徃喰ひ違ふて所謂信用虐用の實を示すは世界各國人共に有り勝ちの事態なれども爰に感心なるは英國人にして商業上に信用を重んずるは殆んど先天の性質とも云ふべく商賣取引の初めには身元を探り約定を密にし習慣通りに取り質して其合格不合格を判定する等兎角一徹頑固にして世辭もなければ愛嬌もなく俗に云ふ木で鼻を括つたるやうなれども當初石橋を敲て渡るの主義に由るが故に中道危險の心配なく取引の次第に密なるに隨ひ商業ますます堅固にして信用ますます厚きを加へ商情長く温厚なるの趣きあり現に在歐州日本商の實驗に於ても浮かと獨逸人などの爲替手形を割引すれば他日取立上に苦情を生じて甚だ迷惑する等の事情あれども英國人の手形には先づ以て此邊の心配なく安んじて之を取扱ふことを得るが故に割引歩合に小差ありても英國人と取引する方、誠に堅固なりと云へり又日本の諸商館にて或る外國製造元に向ひ其製造品のソール エジヱント即ち一手專賣を引受けんとする等の相談を爲すに當り例へば佛國製造元の如き右日本商館が從來名聞ある者ならんには直に其特約を結ぶことあれども英國の信用ある製造元にては先づ其日本商館の性質を吟味し次ぎに其相談を代理する人物の權限を突き留め其委任状を調査して始めて談判に取り掛るやうの始末にして從來日本商館にては此邊の規定もなかりしが故に海外支店を代理する人も或は其委任状を所持せず或は其權限を定めずして相談最中先方の意を滿たすこと能はず爲めに談判不調と爲りたるの例も少なからず誠に不愛想なるが如くなれども人を見て法を變ぜざるは即ち堅固なる英國人の見識、永遠の取引を目當てとして申せば其初に愛嬌なきは其交情の終りに至りて冷熱の變を生ぜざる所以にして彼の英國商人の如き當今の世界に在りながら獨り一諾千金の古侠風を存するものなりと云ふて可ならん今や我が日本國にては商業次第に増長して外國諸商人との取引も亦ますます發達するの時運に向ひ商人信用の一大義は大に此時に講ぜざる可らざる筈なれども近來商工諸會社の流行あるに就き其中實着なる人物が實着なる目的を以て着手する者なきに非ざれども或は浮薄なる投機心に出で間接直接政府の利益應護を仰がんとする者も少なからざるが故に社長頭取取締役等を撰擧するに先づ權門に近縁ある者若くは時めく利口紳商、凡そ此流の人物を以てし此流の人物は所謂はやり役者にして處處方方に手を引かれ世に云ふ引張凧の境遇に在りて引かるるがままに手を出し一人にして十數社に加はり社中重要の位地に置かるれども限りあるの人力を以て限りなきの事務に當ること能はざるが故に自然不手廻り勝ちにして其職務を果すこと能はざるものありと云ふ或は射利に忙はしくして小さき資本を大きく廻し縱横無盡に遣り繰りして一時を彌縫するが故に堅固持久を要す可き會社の株を恰も投機の種として發起人先づ自から賣り逃ぐるものあり甚だしきは株券拂込の期限に迫りて種種の苦情不都合を生ずるものさへありと云ふ斯くて彼の紳商輩は身に餘る信用を虐用して身に餘る業務に關係し其身に附着する奇臭毒氣を到る處に分散して到る處に會社を腐らし他の正業者を蠹害するは勿論、一朝手許不如意にして遣り繰り算段に窮する時は其數會社に關係して重要の位地を占むるの故を以て一人の失敗忽ち數會社の信用を傷け影響の及ふ所、商工業社會の發達を害するの恐れなしとも云ふ可らず抑も彼の北米合衆國の如き企業繁忙の國にして商工家の兼業最も多く信用は廣がる丈け取り廣げて危險を踏むの塲合も少なからず米國の事情に通ずる英國人などは彼等が實際の資本に比して遣り繰りの頻繁なるに驚き内部の切迫を押し包みて其表面を飾るの厚かましきに呆るる程なれども此米國企業家が其名を以て重要の位地を占むるものは多くも二三の會社にして目下日本の紳商輩が一身十數社の重任に當るが如き奇觀ある可しとも思はれず盖し我が日本に於ては商工事業創造にして實際其事に鍛錬なる人物少なく且つ又社會の事情に於て利口紳商の獨り便利なる都合等も多きが故に右の奇觀を呈したる次第ならんと雖ども一人の責任と信用とを數社に分ち多くの安危を一人に繋ぐは所謂信用の虐用にして一朝其信用を損することあれば之れに關係ある十數社は爲めに其安固を害するの姿にして我が商工業の安全發達を保つの道に非ざるが故に我輩は今日商工業發達の時運に當り官民其向きの人人が英國實業家などの事跡を鑑みて此邊に警戒する所あらんこと偏に希望に堪へざるなり