「人種論」
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時事新報に掲載された「人種論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
人種論(昨日の續)
熟ら熟ら文明進歩の次第を觀察し來れば其進歩するや實に有數なる卓識家の力に外ならずして世間一般の衆人は其進歩を利するの外、何事をも爲さゞるのみならず或は其進歩さへも好まずして古來大學者もしくは大發明家は為めに往々罪死の冤を蒙りたるものもなきにあらず然れども天下後世の人々は皆その恩澤に浴せざるものなし抑も卓識家の此世に出るや決して偶然にあらずして必ず出づ可きの理由あり即ち幾代間の經驗閲歴を其一身に代表して出でたるものなれば吾人が斯る人物の出生を望むは取も直さず世界一般の人類を裨益する所の進歩の出生を望むと同一なる事を知る可し吾人もし不明にして世界人類同等の妄説を迷信せば吾人は自ら第一の犠牲となりて其愚を表白するに過ぎず同等の實は唯是れ劣等の人種間にこそ行はる可きのみ若しも今の世界に同等の説を實行せんとするには是非とも社會上流の程度を引下げて之を最下等のものと同じ平準に歸せしむるの策を取らざる可らず如何となればラヴァゼーア(佛國有名の化學家にして同國革命騒亂の折に殺されたり)の如き大學者も斷頭機の一撃を以て一分時間に之れを殺すは容易なれども最下等なる土百姓の智識の度を高めてこの大學者と同等ならしめんとするには幾何の時代を要するや知る可らざればなり然り而して卓識家が文明の發達に裨補する所は實に少なからずと雖も其裨補する所のものは世人の一般に信認する所とは大に異なるものなきにあらず所謂卓識家の行為は吾々人類の幾代間の勞力を總合したるものにして又その發明なるものも既に前人が幾回の經驗を積みたる其結果を収めたるものに過ぎず即ち他人の切磨を經たる石材を以て堂宇を建築したるものと云ふ可きのみ古來の歴史家は各種の發明ある毎に其發明者の姓名を記載せざる可らずと想像すれども印刷、火藥、及び電信等の如く為めに全世界を一變せしめたる大發明中の其一さへも一人の手に成りたりと云ふものとてはある可らず世の所謂大政治家なるものも亦然り其勢は一時或は社會を破壊し又は其進化を妨ぐるに足る可しと雖も其大勢の方向を變せしむるの力なきことはコロンウェル、ナポレオンの智力を以てして猶ほ其意を達すること能はざるを見ても知る可し彼の戰に勝つ者は美術品を納めたる博物館に放火する小兒の如く劍と火とを以て都府人民及び邦國を殘滅すれども其暴威は以て吾人をして其功業の偉大なるを欽慕せしむるに足らず政治家の事業はシーザルもしくはリセリユーの如く唯時の急に應じて其力を致すの間のみ維持す可くして而も其成功の原因は早く既に前代の經營に存するものなり左れば眞實の政治家なるものは後來將に起らんとする必要と前人の豫め注意したる出來事とを察知して之に應ずるの手段を講ずるに在り而して其事とする所は猶ほ發明家の如く前人が數代間に經驗したる其結果を總合するに過ぎざるのみ哲學者より見るときは世間の歴史なるものは人々その理想を實にし或は之を崇拝し又は之を破壊せんとする其爭の傳記に外ならずして學者の眼に於ては沙漠中の幻影と一般の觀を為すに過ぎざれども滔々なる凡俗の世界には幻影の製造者も少なからずして而も大に社會の大勢を動かすことさへなきにあらず其事業の偉大なるは固より抹殺す可きにあらずと雖も是等の人々とても知らず識らずの間に其同類同代の理想を代表し之を實行したるにあらざるよりは決して彼れが如き成功を得ざりし事ならんのみ故に實際世界の大勢を動かすものは其當代の理想と之を代表する人物との力にして其始めは朦朧として空中に浮游する所のものが次第次第に其樣を變じ遂に大豪傑大事業と稱する形となりて世に現出するものにして詰り時の理想の幻影に過ぎざれば其事の眞偽、人の正邪の如きは必ずしも問ふに及ばざることなり古來の歴史を案ずるに人の熱心勇氣を奨勵するものは眞理にあらずして妄想なり妄想なるものは固より一時の幻影に外ならざれども然れども又決して輕蔑す可きものにあらず如何となれば吾々の祖先が敢往進取、野蠻の境界を脱して今日の地位に達したるも亦この妄想の力に外ならざればなり而して吾々人類は其心身を全く眞理の外に處し只管誤謬を求むるが為めに拮据勉勵したるものなれども其求むる所の目的には達せずして却て其求めざる所の進歩をなしたるものと云ふ可きのみ (完)