「日本商工家諸氏に告ぐ(昨日の續)」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本商工家諸氏に告ぐ(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本商工家諸氏に告ぐ(昨日の續)

今の日本の商法會議所は頗る英國制に似たり例へば會員の資格を問へば重立たる商工業組合の總代人を始めとして假令へ其組合の設なきも業體に於て全般の商工業に關係する會社等の總代人あり又は總代人ならざるも營業の規模自から會社に髣髴たつ一商家の主人ならざるはなし又所の經費の賦課法に於ても毎年豫算合計を會員の人頭に割付るが如き何れも英國商法會議所の趣あれども今の商法會議所員中には官尊民卑の陋習を成して自から素町人と卑下するものあり或は官邊に縁因して其歡心を迎ふるものあり或は無學無識にして胸中説を爲さざるものあり或は事務に明なれども徒に世間を憚り物論を恐れて自家の利害に關せざる限りは知らざる眞似して過ぎ去るものあり世間滔滔たる商工家は我れより迎へて政治家輩に閉口するの姿なるが故に此輩の集會たる彼の商法會議所は他の政治社會に對して其重きを爲さざるは勿論、政治家諸氏が商工業上の規則條例を作らんとする等の塲合に於ても之を商工業家に謀らず身に經驗なき政事家が當て推量に實業を論じ疊の上に水練して天上より新案の條例を投ずれば利害直接の商工業家は謹んで之れに服從するの習にして商法會議所はありながら他より相談する者なく又其相談を促がすの勇氣もなく實際何の効能もなくして今日の姿を呈したるは我が商工社會の爲めに窃に痛惜に堪へざるなり顧みて英國の商工家を見れば殆んど商政上の全力を有して其大利害に關するものは政治家の獨斷專定を許さず何は差置き商工家の命意を聞きて始めて之を實施せしむるの都合にして試に一二の近例を擧んに彼の三朱利附公債證書を二朱半に整理するの方案は是より先きグラツドストーン氏の治世中時の出納尚書チルダア氏が既に之を試みたることありたれども爾時氏は商家の好意を得ずして方案の實施に至らず然るに現出納尚書ゴツシヱン氏は倫敦府大商人中に於て兼て名望ありしを以て遂に其賛成を得て始めて之を實行したるが如き昨年商港保護の爲め英國海軍を擴張するの議あるや總理大臣ソールズベリー侯は各要港商法會議所員を迎へて先づ其意見を質問し又彼の鐵道運河條例を更正するの際にも同じく之を會議所に附し其總代人の意見を聞て始めて之を施行するに至りたるが如き何れも商法會議所が暗に商政の大權を握りて之に關する事項に就ては一一政治家の所爲を監視し政治家も亦其威望を敬重して事毎に之れに相談するの趣あるを見る可きなり即ち英國商法會議所が其社會に有力なるの一斑にして我が商法會議所の如き之れに對して聊か面目なき次第なれども是れは我が先祖より社會傳來の罪にして強ち今日の商工家のみを責むること能はざるが故に追て國會開設等の擧と共に次第に改良の歩を進む可しとして扨て我が商法會議所中に商事勸解の仕組なきは其一大欠典なりと云はざるを得ず然りと雖ども此事たる商工多年の習慣に因り裁判する者に依怙の沙汰なく勸解せらるる者も之れに服して敢て抗辨せざるの美風を成したる者なるが故に彼の商法會議所條例を以て商法會議所は商事斯く斯くの爭論を仲裁す可し既に仲裁を受けたる以上は之を拒絶して他に訴ふことを得ずなど云へる條目を立て嚴格なる法律を笠に被て商法會議所裁判を無理遣り力行せんとするが如きは以ての外の事なる可し盖し英國等にては彼の商事上の紛紜に就き當業長老の勸解を得て原被兩造之れに承服するの塲合多く例へば今商事上の爭論に關して商法會議所に訴ふるものは其箇條書を認めて若干の謝金と共に之れを會議所書記官に送り會議所にては爲めに仲裁委員を撰みて其訴訟を聽斷せしむるの法にして前例故實も多きが故に斯く斯くの爭論に就ては箇樣箇樣の勸解あり某の仲裁は某事件の先例に依る可しなどとて仲裁勸解の手段に窮せず且つ英國人の性質としてコンモン センス即ち通俗心の判斷を重んじ奇論卓説は暫く置き尋常通俗の心に問ふて如何にも尤も千萬なるものを取り此心に訴へて苟も穩當ならざるものは手を引て之れを爭はざるの事實あるは毎度見聞する所にして或る時英國の都府中にて往來人込みの四辻に便所を取り設けたる事柄より近傍市民と市街取締との間に紛議を生じ市民は裁判所に罷出て斯る人込みの塲所柄に便所を取り設くるとは不埒なりとて其勸解を乞ひたるに裁判官は之れを諭して人込みの塲所なればこそ便所の入用も起るなれ徃來途絶えたる片田舍に何程便所を設けたりとて何の効用もあらざる可しと此の最も通俗なる説諭に市民はハツと感心して紛議も其の儘治まりたりとの奇談あるを見ても一般人情の正直にも又從順なるを知るに足る可し斯ることの次第にて彼の商法會議所の仲裁の如き多年商事上の習慣に因り又その社會の通俗心に訴へ自然穩に纏まるものにして冷淡なる條例文に據り一朝この仲裁法を試むることもあらば爭論に枝を生じ紛議に蔓を引出して殆ど際限なきことならん左なきだに我が日本に於ては未だ商法の設けなく商業上の慣例の如きも亦甚だ區區にして千怪萬疑曖昧模糊、聲の大く高くして勢の烈しく鋭きものが先づ以て強情を張り通すやうの次第にして商法會議所の仲裁も差向き十分の見込なかる可きが故に目下我が商法會議所中に商事勸解の仕組なきは固より一大欠典なりと雖ども今後此仲裁の漸次習慣を成すまでは條例法律等の無情を離れ商工同業の好を以て偏に事の圓滑を謀り打ち解けたる人情の働きに因りて商法會議所仲裁の慣行を養ふの工風なかる可らず此等の時宜に關しても彼の商法會議所條例を發して同會議所に附與するに四角張りたる官府流の性質を持つてするは我輩の賛成する能はざる所なり                    (以下次號)