「藩閥政府」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「藩閥政府」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

藩閥政府

世人は今の政府を稱して藩閥政府と云ふ我輩も亦その然るを信ずるものなり盖し維新の初めに當り薩長土肥の四藩人は首として王事に勤め功勞少なからざるを以て爾來政府の要路に當るものは多くは四藩出身の人にして其勢力自ら他に異なる所あるより隨て藩閥の名稱を生じたる事なれども其後時勢の變遷と共に土肥の兩藩は政府部内に於て次第に權を失ひ薩長出身の人人が專ら重要の地位を占めたるより彼の藩閥の名稱も亦その專有する所となるに至りぬ扨薩長の人人が藩閥の名を專有し今日に至るまでも依然として政府部内に勢力を振ふ所以のものは如何なる理由なりやと考ふるに此兩藩人が維新の事に與りて殊に出色の功ありしより隨て政府重要の地位に立つものの多きが爲めなる可きも我輩の所見を以てすれば兩藩人の性質に互に相投合する所のものあるよりして其間に一種の結合力を生じ以て今日の勢力を現出したるものの如し抑も人間の性質中に貴ぶ可きは氣力と才智の二にして事の成効に其一を欠く可らざるは獨り一個人に於けるのみならず社會一般の事に就ても亦然らざるはなし盖し薩人の性質は氣象を以て勝つの流にして剛毅率直、氣力の點に於ては申分なしと雖も細に事理を分析し事を文飾するが如きは其短所にして一言以て之を評すれば武に長じて文に不足するものと云はざるを得ず然るに長人の性質は之に反し寧ろ文事に長じて自ら才子の風采に乏しからず然り而して政府の局に當りて天下の事を料理するには氣力才智ともに必要なること勿論にして維新革創の時に當り親ら兵馬の間に奔走し軍國の事を斷ずるは申す迄もなく今の文明多事の世に處し内に向て政權を張り外に對して國權を振ひ以て大に政府の基礎を固めんとするには當局者に異常非凡の氣力を要すること勿論なれども文明の政治は至て複雑なるものにして一片の精神のみにては未だ以て足れりと爲す可らす社會の人智進歩すれば法律規則を重んずる中に時として武斷の流〓を用ふることあるも之れを粧ふに文を以てせざるを得ず即ち政治上に文才の必要なる所以なり而して薩長出身の人人は既に其創業を共にし又その守成を共にし二十年來互に固有の性質を交換利用して以て今日の地位を作り出したるものなれば恰も混然一體の形を成して容易に分離す可らず若しも化學流に之を形容すれば其成分は薩長の二元素にして性質は文武兩性なる藩閥と名くる一大抱合物を化生したるものと云ふも可なり或は又薩長の間柄は之を夫妻の關係にも喩ふ可し世間にては今の政府の不折合を目して之れを薩長の軋轢と稱し又は雙方の權力に優劣あるが如くに唱ふるものなきにあらざれども事情に通ぜざるの説なりと云はざるを得ず元來男女の性質には内外剛柔の相異あるが故に外より之を見るときは妻は常に夫に屈するが如くに思はるれども一家内の始末に至りては婦人の權力思の外に大にして决して男子の下に在る可らず性質の剛柔を見て以て權力の優劣を判するは未だ皮相の見解たるを免れざるものなり又軋轢云云の談に至りても例へば夫妻の間の風波に過ぎずして時時の風波は却て交情親密の兆として見る可きのみ左れば内閣不調和の沙汰は屡ば屡ば我輩の聞知する所にして時としては之が爲めに一局部の更迭を見ることなきにあらずと雖も曾て兩元素の間に大破裂を致し雙方相分離して云云したるの例とてはなく其度ごとに却てますます關係を密にしたるの觀なきにあらず即ち夫妻間の時時の風波は適ま適ま以て其情を密にするの實を見る可きのみ                    (以下次號)