「十津川郷士民の移住」
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時事新報に掲載された「十津川郷士民の移住」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
十津川郷士民の移住
大和國吉野郡十津川郷の士民は過般の天災にて幾多の人命家財を失ひ非常の慘状を極めた
る其上に祖先傳來の土地田畑さへ流出し今は其郷里に於て産に就くの道なきより一同協議
の上同保六百餘戸の士民擧て北海道に移住するの議に决し過半は既に出發して移住地に着
したりと云ふ抑も十津川の士民は古來義氣に富めるの聞え空しからず元弘建武の亂には一
郷相結んで南朝の御味方となり終始其節を改めず爾来數百年王政維新の際にも眇然たる土
豪の身にて天下に卒先し勤王を唱へたるは世人の普く知る所にして其忠勇敢爲の氣象は今
日に至ると雖も渝はる可らず左れば一朝不幸にして非常の天災に罹りたれども毫も之に屈
せず斷然移住の志を决したる中にも其舊誼を思ふの情は忘却せずして移住地を新十津川と
稱する事、移着の當日を紀念祭日とする事、後醍醐天皇を始め楠公等の祠を建設して年々
祭典を執行する事、紀念祭日並に後醍醐天皇等の祭日には各自相集まりて歡を盡す事の四
箇條を約束し一郷相携へ袂を奮て南山の雲を辭し遠く北海道に赴き氷雪の野を開拓して就
産自營の業を創じめ又一には屯田兵の籍に入り北門の鎖鑰を守らんとする其心掛の殊勝な
る流石は平生に背かざる振舞にして十津川士民の名を辱かしめざるものと云ふ可し顧ふに
今の全國の士族中には曾て天災に罹りたることなしと雖も世事人事の變遷に際し圖らずも
悲境に陥りたるもの甚だ少なからず其事情は誠に憐む可しと雖も天下大勢の赴く所は如何
ともす可らず左れば世の窮士族たる者は今日の境遇を以て天災に罹りたるものと諦らめ大
に奮發して更に自活の道を謀るこそ本分なる可きに滔々たる其社會には天下到る處たゞ貧
困の嘆聲のみにして自ら奮起して事を企てたるの談あるを聞かず盖し今の士族諸氏は忠勇
義憤、國事に勤勞して以て國の干城たりし人々の子孫なるのみならず今を距ること二十年
前迄は夫子自らも現に一死報國の気慨を以て護國の大任に當りたるは猶ほ記臆する所なら
んなれば如何なる困難に陥ればとて武士の精神、窮して益々奮ふの覺悟こそ肝要なる可き
に然るに今その種族の中には饑寒の塲合に瀕しながらも戀々生誕の地を去る能はず或は舊
縁故を以て舊藩主の憐を乞ひ又は口實を設けて政府の救助を仰ぐなど恥を故郷に曝らして
愧る所なき其醜態は外より之を見るも氣の毒なり堂々たる普代恩顧の武士、十津川の士民
に對して果して何の顔色ありや又近來は士族の中にて有士家など稱し頻りに四方に奔走し
て政治の事を談じ一身一家の衣食を顧みずして分外に天下の利害を喜憂する者あり其志は
感心す可きに似たれども若しも其口に唱ふる如く聊かにても國事の考あるものならば第一
に其身の始末して父母妻子の心を安からしめ苟も他人の厄介とならぬ樣、自ら注意す可き
筈なるに心事常に遠きに馳せて近きを忘る特に十津川の士民に對して顔色なきものと云ふ
可し抑も北海道を開くの要は地を拓き山を穿ちて物産の増殖を期し道を修め港を築きて運
輸の便利を謀るに在りと雖も今の世界に戰守防禦の事も亦忽にす可らざること勿論にして
内國との交通も未だ十分ならざる北門の鎖鑰、臨時の方略として土着の兵を置き以て臨時
の變に應ずるの必要もある可し即ち屯田兵の設ある由縁にして之には政府の厚き手當もあ
りて其應募者を待つこそ幸なれ國内に在りて自ら給すること能はざる窮士族輩は斷然早く
移住の策を决し一面には自ら耕して自ら生活するの道を開き一面には屯田の兵籍に入りて
國民の義務を盡さば啻に目前の窮を救ふに足るのみならず祖先の神靈に對しても武士の子
孫たるの名を空うすることなく一擧兩得の計と云ふ可し我輩は目下その貧困に苦しむ全國
の窮士族が十津川士民の風を聞て大に奮起せんことを希望して止まざる者なり