「衛生の進歩」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「衛生の進歩」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

衛生の進歩

近來我國にては社會の事物何れも改良したる中、衛生の如きは其進歩の頗る著るしきもの

と云はざるを得ず盖し衛生の議論は年來官民公私ともに最も熱心する所にして隨て其事の

緒に就きたるものも少なからず先づ事實に現はれたる處に就て之を言はんに中央政府に衛

生局を設け各府縣には衛生課を開きて其事を審議せしめ傳染流行病の豫防消毒法を設けて

之を施行するなど注意の周到なるは申す迄もなく又民間の私に於ても私立衛生會又は醫會

を設けて平生の研究に怠らざるのみならず有事の日には自ら其力を致したる事なきにあら

ず過般府下の築地近傍に流行病の折も京橋區の衛生會が奮て豫防消毒の事に當りたる如き

は即ち其一例として兎に角に官民公私ともに衛生に熱心して事務の進歩を致したるは疑も

なき事實なりと云ふ可し抑も衛生は文明の事業にして其進否は社會の文野を表するのみな

らず事實に於て國運の強弱に關係するものなれば我國に於て其進歩の兆あるは誠に賀す可

き事なれども元來其事たる深遠なる學理上の問題に屬し至て精密なる觀察を要するが故に

唯、外面の事務の進歩のみにては未だ深く喜ぶ可らず此頃西洋の學者間に行はるゝ説を聞

くに近代衛生の進歩は疑ふ可らざる所なれども其進歩と共に之を妨ぐる害物の進歩も亦疑

ふ可らず例へば食物運動の法則、就業の時間、家屋の構造、上水下水の裝置など何れも學

理上の實驗に由りて之を規定し殊に傳染流行病の豫防法に至りては用意最も深密にして遂

に恐る可き病毒を文明の域外に驅逐したるは天晴、衛生上の手柄にして進歩の著るしきは

勿論なれども又顧みて一方を見れば百般の技術逐年進歩するに從て人間の生活に種々の變

化を起し衛生上の害を釀したるもの甚だ少なしとせず即ち學者が深遠緻密の學術に耽りて

頭腦を勞し或は學問上の探求の爲め極遠未開の地に徃來して身を瘴烟毒霧に暴露し披衛家

が業務の爲めに眠食を時にせず饑寒を忍ぶなどを始めとして其他近來社會生計の度の高ま

りたるが爲め一般の勞役者が勞働の割合を増したるが如き何れも文明の進歩に免る可らざ

る事相なれども衛生上より見れば其害の進歩にして當局者の最も注意を要する所なる可し

と云ふ左れば我國の事態も他の文明國の例に洩れず社會の進歩と共に衛生の事も進歩し其

進歩と共に害物の進歩も亦相違なしと雖も其害の進歩は之を他に比して一層の甚だしきも

のあるが如し今この事情を云はんに日本は新開國にして文明進歩の勢特に劇しく俄に社會

の變化を致したることなれば人々の生活上にも非常の影響を及ぼしたるや疑ふ可らず例へ

ば廿年前迄は讀書文學を以て虚弱書生の事と爲し日本男子專門の務は尚武に在りとて弓馬

槍劍の武事にのみ其身を委ねて生涯を送りたる士人社會が文明の東漸と共に忽ち學問の叢

淵に變化し今日既に此中より文明流の學者技術家を出すのみならず今後も亦然ることなら

んなれば即ち武骨殺風景なる舊腦髓に深遠緻密なる新文明の學理を注入するの勢にして之

に加ふるに飲食衣服日常の物に至るまでも共に激變を被るが故に其生活上に多少の變化な

からんと欲するも得べからず近年の學生に身體の薄弱なる者甚だ多くして徃々苦學の爲め

に夭折の沙汰さへなきにあらず識者の夙に注目する所にして其重もなる原因は前陳の事情

に由らざるはなし且この事情は獨り上流の學問社會のみに止まらず末流の下等社會に至る

までも苟も文明の變化に逢ふ者は其心身に多少の影響を蒙ることなれば之を要するに我日

本國に於ける衛生の害物は今正に一種非常の勢を呈するの時節なるが故に其事の局に當る

者は無論都て社會先達の地位に居る人々は特に此邊に注意して學問教育の事より百般の人

事些末の部分に至るまでも之を處するに常に衛生の要を忘るゝなからんこと冀望に堪へず

單に文明流の成法にのみ拘泥して長鞭却て馬腹に及ばざるが如きは我輩の遺憾とする所な