「政府部内の秩序」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「政府部内の秩序」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政府部内の秩序

一國政治社會の秩序を靜肅ならしめんとするには先づ政治の本源たる政府部内の紀律を整

へざる可らず東洋風の習慣に由れば凡そ政府の祿を食むものは其職務の如何を問はず皆是

れ言責あるものにして上は當局の大夫より下は閑散の士人に至るまで敢言直諫を以て忠義

と心得、銘々勝手に政治の事に容喙するを能となし世間にても亦これを稱賛して美風と認

めたれども是れは尚ほ政治に幼稚なる未開社會の常にして今日より評すれば政治の秩序な

きものと云はざるを得ず社會の氣運次第に發達して隨て政治の機關整頓するに至れば政府

部内に斯る不取締あるを許さずして西洋諸國の例によれば政府の官吏に政務官と事務官と

の區別あり政務官なるものは政府に立て政略の方針を執り其施設若し國内多數の希望に協

はざるときは責任を負ふて身を退くの例にして隨時内閣の更迭を致すことなれども事務官

は則ち然らず時の當局者の何人たるを問はず又政略の如何に拘らず唯己れが擔任する事務

に鞅掌し其進捗を致すを以て一身の本職と爲し政治の事に關しては曾て口を開かず即ち公

僕の務に從ふものなり盖し立憲制の常として政府と議院と相待て政治機關の運動を爲すの

塲合には内閣更迭の機に際し若しも部内の秩序一定せざるに於ては機關の運動圓滑ならず

して制度の美を見る可らず即ち此區別の必要なる所以なり凡そ此邊の意味は今の世に何人

も理解する所なれども我國の事情を見るに近來は諸般の制度やゝ整頓して殆んど東洋傳來

の弊風を脱したるが如くなれども年來染込みたる習慣は全く忘るゝこと能はざるものと見

え國會の開設僅に年を隔つる今日に於ても何か出來事の起るに遇へば年少氣鋭の官吏中に

は動もすれば平生の心得を忘れ分外の事に容喙するの擧動なきにあらず過日の本紙上に配

したる雜報中に左の一節あり

前略我國は今に始まりたる次第には非ざれども兎角事務官にして政務を喋々するの傾きあ

りて一事件の内閣に起るものあれば各省中の若事務官は忽ち其是非を論じ三々五々此處に

集會を催ほすものあれば彼處に遊説を試むるもあり甚だしきは事務時間中に病と稱して郊

外の貴顯を敲き自己の所説を陳じて或は慫慂し或は排斥する中には大膽にも同氣相求めて

勝手に編立てたる方略を献ずるもあり餘りの出過たる仕打なれば政務者は一喝の下に責却

することなるべしと思ひの外却て採用の榮を辱ふするの事例あるより群小は益々異議を進

めて遂には政務の擾乱を來すことなしとせず現に昨今の如きも内閣の雲行きに少しく異變

を催ほしたりとの噂さあるより各省の事務官は頻りに密會を催ほし遊説を試み常務は殆ん

ど手に付かざる有樣ありと云へば又々之れが爲めに事務の澁滯を釀成するのみか延て閣議

にまで餘波を及ぼすの恐れはなかるべきやとて老政治家中には胸を焦し居るものもあるよ

しなれども元來斯る惡習の行はるゝに至りたるは其原因種々樣々にして古來我國に行はれ

たる情實の弊は今日の政府中にも未だ全く餘臭を脱するに至らずして少しも政務に關係な

き事務官の如きも大臣の去就に依て其進退を决するの事情あれば常に内閣の雲行に意を注

ぎて奔走周旋する處あるも其故なきにあらざるのみか近來歴々たる老政事家にして壯者の

智を借るもの多く自ら公言して壯者に學者多し依頼せざるべからずと己れを賤めて壯年の

氣を迎ふるの傾きあるより只さへ進んで爲すあらんとする所なれば此機乘すべしとなし爭

ふて其範圍を脱し犯すべからざるの境を犯さんとするに至るものなれば今其習弊を矯めて

政務、事務の區別を判然ならしめんとするには先達の士は大いに自重して一歩も壯者の侵

入を許さず後進の士も亦自ら顧みて敢て其分限を超えざる樣二者共に自ら戒むる所なかる

べからず云々

右は世上の風説を記したるものに過ぎざれども果して斯る事實もありとすれば事務の澁滯

を免れざるは勿論我輩が前號に述べたる如く今後の成行にて若しも當局者が責任内閣が實

を擧げんとするの塲合に立至り内外の議論に衝突を致し事の圓滑ならざるは必然の勢にし

て識者の最も患ふる所なり此點より見れば官吏にして國會議員を兼ぬるが如きも甚だ妙な

らざれども是は別問題として茲(玄+玄)に論ずることを止め我輩は當局者が後日の策と

して今より政務官事務官の區別を嚴重にし政府部内の秩序を一定せんことを希望する者な