「社會の風儀」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「社會の風儀」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

社會の風儀

近來其筋にては頻りに風俗の取締に注意するものと見え坊間刊行の圖畫又は出版物にして

風俗壞亂と認められ發賣頒布を禁ぜられたるもの少なからず聞く所に據れば此頃より飲食

用切符云々の名を冐し賭博に類する物品授受の法を記したる冊子を出版する者あり又猥褻

に近き婦人の圖畫を印刷し公然店頭に掲げて之を鬻ぐものも少なからざるよしにて新聞の

紙上などにも間々この不都合を鳴らす者もありしが遂に其筋の注意する所となりて禁止の

令を更に嚴にしたるものと見ゆ誠に至當の處置と云ふ可し併しながら全體より申せば社會

の體裁整肅にして人々の私に德義を重んずるの風を成すときは假令へ無恥の下流社會に卑

陋醜猥を事とするの徒あるも其醜勢を世に逞うするの機なく隨て政府の禁令などを要せず

して止む事ならんに然るに今の社會は斯る不倫の圖書出版物を公にするの機會に富み僅に

法律の手を借りて之を禁ずるとは即ち民風の尚ほ卑しき兆候にして我輩の竊かに恥づる所

なり抑も今の日本社會を見るに下流の情態は暫く措き世に所謂紳士と稱し社會の表面に立

つ所の輩にして其私德を問へば殆んど言ふに忍びざるものなきにあらず我輩は固より人事

の秘密を摘發して他の私行を云々することを好まざるものなれども社會全體の風儀の爲め

に默して止む可らざるものあるを如何せん彼の賭博に類する物品授受法を記したる冊子を

出版し又は猥褻に近き圖書を印刷して世に公にするが如き元來下流無恥の輩が事理を解せ

ず只、世俗の嗜好に投じて小利を博せんとの淺慮より出たるものにして士君子の眼より見

れば其鄙陋固より厭ふ可しと雖も天下の大事にあらず或は事情に由り聊か恕す可きものな

きに非ざれども爰に决して恕す可らざるは彼の紳士輩の所行なり豪遊豪興と稱し千金一擲

一夜の愉快を買ふて之に滿足するは彼輩の心事野鄙殺風景を極め醉飽の外、他能なきの致

す所にして唯憫む可きのみ或は其豪遊單に醉飽に止まらず坐間の餘興、時としては別墅を

賭するの顰に倣ふなどの奇談もなきにあらずと云ふ但し此種の事は暗夜秘密の間に行は

るゝものにして社會の耳目に觸れざるが故に暫く之を問はざるも其私德内行の修まらずし

て家に風波を起し時として醜聲の外に漏るゝのみならず甚しきは青天白日不倫の塲所に出

入して不倫の婦女子輩と同席同車し衆目を憚らずして却て自ら誇るものあり醜態見るに堪

へず奇略を用て之を評すれば風俗を壞亂するの活人畫と稱するも可なり是等の所行は一個

人の行爲に係るを以て幸に法律の目を免るゝことなれども民風に關係するの點より見て事

の大小輕重を論ずるときは彼の圖書出版物と同日に語る可らず如何となれば彼は唯、下流

社會の俗好に投じ利を博せんとの目的にして其害も亦下流の中に止まれども是は社會の表

面に立て惡例を示すものなるが故に其害を上下一般に及ぼすの恐あればなり然り而して其

行爲たる固より他人の云々す可き所にはあらざれども苟も自ら紳士を以て居る以上は其名

に對しても多少憚る所なかる可らず我輩は多言を要せず唯其輩が自身の地位身分を顧みて

社會の爲めに少しく自省する所あらんことを勸告する者なり