「被害地の窮民」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「被害地の窮民」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

被害地の窮民

日本の内地は千百年來耕作の上にも耕作を加へ其豐味は殆んど既に涸竭して今の収穫は唯

纔に肥料と交換するに過ぎず農業に於ては誠に頼少なき土地となりたり左れば彼の游牧の

民が水草を逐ふの趣向に從ひ沃土を域外に求むるこそ必要にして我輩が兼て開墾鍬下年期

の延長を希望し又海外移住を主張したるも皆此主意に由らざるはなし蓋し人口ますます多

きを加へて瘠土また遺利を見ざるの地に齷齪たるは公私の爲めに窮する所ありて益する所

なければなり然るに墳墓を顧み親戚を慕ふは人間の至情にして假令へ郷國には生を托する

の餘地を殘さず活計の困難日々に目前に迫ると雖も扨他域に踏出さんとするに當りては先

づ異境流寓の悲酸のみを想像して身邊世帶の艱難をば忘るゝとなしに打忘れ故山に戀々す

る其間には飢餓に瀕し卑賤に沈みて果敢なき生涯を送るもの凡て從來の實况なり誠に姑息

の情實にして憫むに堪へたりと雖も人情に逆ふは流を留むるよりも難し現に我國の士族の

如きは理非善惡の分別も勇往敢爲の精神も他の種族に比して常には大に優る所あるに拘は

らず利に赴き身を立るの點に至ては其元氣を鼓舞するの勇なくして聊か祿券を維持するも

のは悠然として脾肉を撫し恩賜既に竭きたるものは妻子と共に路頭に迷ひ朋友知人に生辱

を晒して猶も故郷に昵むの有樣なれば呪して農民の如きに至ては身に勞働の覺えありとは

云へ移住を决するの奮發心は之を望んで得べからず氣の毒ながら其成行に一任して零落の

極或は奮發の動機たるべきやと傍観せしに今年の水害は端なく其運を啓かんとするの事實

を來たせり

今年の水害に遭ふて南朝の遺臣和州十津川の住民は全部落を擧げて北海道に移住したり蓋

し日本の社會に一美例を與へたるものにして遭難の餘、事偶然に出でたりと云ふと雖も所

謂移住の名譽は長く十津川人民に歸すべきものなり徃昔戰國の時代には敗軍の餘、身を置

くに所なくして僻遠荒凉の地に落ぶれ僅かに餘生を完ふする其間に民業を奬勵して不毛を

拓きたるもの少なからざりしかども此度の如く永住の故山を見捨て全部落を擧げて移住し

たるは我輩の未だ聞かざる所にして殊更に之を美擧と稱するは今の我國の窮民等が飢餓に

瀕しても猶ほ親戚故舊に戀々して離群素居の悲しみを慈しむ其中に一種特色の事例を示し

たるが故なり近來諸方の報道を聞くに被害地方の小作人は作料の減免乃至救助あらんこと

を申唱へ地主に向て同盟罷工をなすものあれば甚だしきは不穩の擧動に及ぶものあり或は

堆高き土砂に埋もれ巨大の木石に押潰されたる田畑をば唯一概に舊に復せんと欲するより

辛苦して勞力を顧みざるもの比々皆然りと云ふ被害の田地惜からざるに非ずと雖も何故に

斯る難儀の勞働を以て移して北海道に施さゞるや何故に罷工の同盟を以て移して北海道に

同盟せざるや今回の同盟こそ親近相携ふるの便宜なり過日の水害こそ瘠土を捨つるの好機

なり而して北海道は我輩が曾て論じたる如く興すべきの事業に乏しからずして拾ふべきの

遺利甚だ多く公私の利益蓋し此上ある可らず况んや日本國の版圖内にありて海外萬里の異

邦に異客たるに非ざるをや左れば北海道の移住に適するは申す迄もなけれども唯その寒國

雪深きの故を以て關西の人民は殊の外恐縮し又世間の論者中にも暖國の人民は九州の日向

邊に赴かしむるこそ却て勸告の親切なるものなりなど云ふ者あり成程北海道は寒く九州は

暖かなるに相違なしと雖も寒暖の苦樂は利害の厚薄に比較す可らず地味の一點に於て南北

天淵の相違は固より論なきのみならず假に其利益を離れて唯名譽の上より云ふも九州に赴

くものは恰も實業家の新參者にして云はゞ他の軍門に降を乞ふの姿となれども北海道に移

住すれば開拓の祖先と尊まれて永く史上に芳名を留むべし我輩が一歩を進めて所望を吐露

すれば今の政治社會に馳騁する人々も雲烟過眼の虚聲を斷念して國利民福の實名譽を求め

黨衆を率て北海に渡航するこそ得策なれと云はんと欲する者なり移住者の名譽は小政治家

の比にあらず今の窮民たる者が何とて寒暖を問ふの暇あらんや况んや北地とて人口の次第

に繁殖するに隨ひ氣候に變化を生ずるは天然の道理にして猶ほ現今とても左程に恐るべき

程の風土に非ざるに於てをや

左れば被害地の窮民を始め世の生存競爭に打負けたるものは恰も徃昔の敗將敗卒が邊陬に

身を隱すの否運と心得、思案を定めて聊かの艱難を忍び北海道に移住して第二の幸福を求

るこそ上策なりと雖も爰に憫むべきは下等卑賤の窮民なり(理否の分別ある窮士族の如き

は假に上等の窮民とす)殊に水害に遭ふて實際その土地の頼む可からざるを知ると雖も無

智寡聞の悲さには人生の區域を狭められて身は必ず其郷國に死生すべき筈と定め移住な

どゝは更に存じ懸もなければ唯夢中に瘠土を耕すの外なく又少しく事理に通する者は多く

は地主等の連中なれば小作人の逃出さんことを恐れて自己の利益を保護せんが爲め北海道

云々の如きは口を箝めて曾て言はず、不言不聞、漫然茫然の間に齷齪その日を送ると云ふ

誠に果敢なき次第なれば此邊は當局先達の人々に於て注意を加へ時々奬勵して移住思想を

發揮せしめんこと我輩の切に望む所なり聞く所によれば僧侶中の有志者は此等の窮民を勸

誘して移住せしむるの方法を工風中なるよし經世の爲め至極結構なる事柄にして我輩は移

住の事に付ては其發起者の誰れ彼れに論なく都て賛成の意を表する者なれども唯新聞紙の

勢力下等の細民に及ばざらんことを憾むのみ