「自治は政治上に限る可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「自治は政治上に限る可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

自治は政治上に限る可らず

民は之れに由らしむ可し之を知らしむ可らずとは東洋古來の政略にして人民は事の由來を

知らず右と云へば右、左と云へば左、唯上の命是れ從ふ其趣は群羊の牧者に從て鞭の向ふ

所に赴くに異ならず即ち牧民官など云へる文字の起りたる所以にして當時の人民が唯肉體

の温飽を得さへすれば夫れにて滿足する其情に於ては至て氣樂なりしことなる可し然るに

西洋文明の風は近來東洋の桃源に吹き入り鎖國蟄居の我國も開國外交の運びに至りて追々

交通の頻繁なるに隨ひ所謂有形文明の利器を輸入すると同時に遂に彼の民權説をも輸入し

て人民參政など云へる奇論を唱ふる者を生じ民撰議院の建白ありてより以來國會請願の喧

しきが爲め先づ其手始めとして府縣會を起し夫れより國會開設の期限を明治二十三年と披

露したる其二十三年も最早旦夕の間に迫りて芽出度き國會の開塲を見るも僅々數月の後に

あり特に先般市制町村制の發布もありて人民は着々參政の權利を得る其代りに權利に對す

る義務として着々自治の責任を盡さゞる可らず政府の方にても人民をして此責任を盡さし

むるやう彼の自治制を設けたるならんかなれども本來この自治制なる者は日本多數の人民

が果して其大切なるを感じて終に一般の與論を成し以て其發布を促したるものか若しも然

らば自治の精神は一般人民に行き渡りて獨り政治上に止まらず社會一切の事に對して其精

神を失ふことなく自治の實責を盡くすことを得べしと雖ども我輩の所見を以てすれば日本

多數の人民は能く能く自治論を解するものに非ず從來不知不識の間に之を實行し居たる者

にも非ず實は至て漠然たる者にして事の起原は學者政治家若くは彼の演説者の類即ち世上

の思想家が歐米諸國の政治書を讀み或は其事情を見聞して漸く自治論に論及する最中、政

府當局の長官輩或は政治視察と稱し或は制度取調と唱へて歐米諸國を巡廻するの際、彼の

國自治制の美なるを見て之を羨望するの餘り其條例を携へ歸りて之を我國の實際に施した

るものにして最少數の人々が一時の思附を以て之を擧行するに至りたるのみ即ち多數人民

中に自治の實あるの故を以て自治制を出したるに非ず先つ自治制を發布して促がして其自

治を思ひ立たしめたる者なれば自治制明文の在る所、即ち市會町村會等を始め重もに參政

上の事柄には餘義なく自治風を吹起したるが如くなれども社會一般の事に就ては概ね例の

遣り放しにして政治上の暖室には人爲條例の力を以て自治制の蕾を破りたれども天下は未

だ自治の春を呈せざるの觀なきを得ず抑も歐米諸國にて所謂自治と稱するものは其意義至

て廣く單に市會町村會等に出席して市内町村内の出費を議决する位に止まらず一家に在り

ては主人として世間に出ては公民として銘々自から支配して共に盡す可きの義務を盡くし

公共必要の事とあれば其事情の許す限り我れより進んで之れに當り毫も其勞を辭せざるが

如き何れも自治民の所業にして試に英國の義勇兵などを見るに政府は固より人民に對して

其義勇兵たるを命ずるに非ず國家一旦事あるに當り銘々應分の力を致すは人民たる者の義

務なりとて凡そ丁年の男子たる者は其業務の餘暇を以て自から進んで操練に從事し政府は

三年間習練したる者に兵服兵器を給與するのみ而して其最も感心なるはこの義勇兵中に畫

工隊あるの一事なり平常丹青に從事して錦思〓(ルビ・し)想を凝らし武邊には最も縁遠

き者に至るまでも自から國民の一部分たるを思ふて時に操練に從事するが如き所謂投筆事

戎軒の氣概あるものとも稱す可きか孰れも護國の義務を思ひ他より命令するを待たず自か

ら守るの道を講ずる者にして我が日本人の如き其自治心の盛んなること果して此くの如く

なることを得べきや盖し中に顧みて赧然たらざるを得ざることならん但し彼の義勇兵の事

は國に對するの自治業にして事態頗る重大なれども更に日常の瑣事に渉りて我が國人の自

治心に乏しきは毎度見聞する所にして例へば村橋毀壞して人車の通行に便ならず橋畔の人

民一擧手の勞を費すときは我れも人も便利なれども知らざる顔して其不便を顧みざるが如

き或は徃來に塵芥を捨て或は公園に花木を折る等その例枚擧するに暇あらず固より瑣末の

事なれども推して之を論ずるときは自治心に富みたるものと謂ふ可らず我輩曾て白耳義國

に遊びブラツセル府の公園に至りたるに其路傍の制札に「公園は諸君の偕に遊樂する所に

して其道路を汚し其花木を損するは取りも直さず諸君の遊樂を妨ぐるものなるが故に箇樣

の所業を見附るときは共々之を禁じたきことなり」云々の文意を記したるを見たり日本公

園の制札には「花木折り取る可らず」云々と上より下に命令するの言葉あれども自治心に

富みたる人民に對しては毫も命令の辭を用ひずして單に自治の理に訴へ人民も亦之れに對

して互に其禁句に觸るゝことを戒め當局者と人民と互に其威望を敬重して嘗て命令がまし

き事なきは自治國民相待つの禮とも申す可きか自治制の明文に促がされて市會起り町村會

起りたりとて未だ自治國と稱す可らず國中多數の人民をして心の底より自治の理を解せし

め將た其精神を擴めて大は國家公共の事、小は尋常瑣末の事、總べて自治心を以て支配す

るに至りて始めて自治國民の實を擧ぐることを得べし我國の人民も既に自治制を得たる今

日、勉めて早く此點に達せんこと我輩の偏に希望して已まざる所なり