「工業家油斷す可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「工業家油斷す可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

工業家油斷す可らず

我國にて近來諸工業の發起したること實に異常の數にして其工業の性質に因りては輸入外

國品との競爭外に立ち至て氣樂なる者もある可けれども綿毛絲紡績業並に綿毛布織物業、

電氣に關する諸機械製作、製紙製鐵等の事業の如きは輸入外國品に對して競爭の正面に立

たざるを得ず今英國マンチエスター地方の製造家の如き支那日本等を始め東洋諸國の市塲

を以て無二の大得意と爲すが故に其得意塲の商况氣配流行時好に注目すること頗る敏捷な

る者にして試に我國に就て云へば橫濱神戸等の土地柄に商品見本の撰集人を置き綿布其他

の縞柄模樣時々流行の變に際して一々其見本品を送らしめ之を見本室に陳列して夫れ夫れ

其向きの品柄を織立て之を日本に廻送するの手順にして其見本室に至りて見れば蒐集方の

行屆きて其網羅力の盛なること實に目を驚かすに堪へたり斯て此織物を英國より日本に輸

送する運賃並に諸雜費を目方一〓に就き假りに英貨二磅即ち我が十三圓少餘として之れに

日本の海關税凡そ原價の二三分ばかりを加算したる處にて織物一反の運賃並に諸掛りは實

に輕少なる者にして在倫敦日本商人の調査に據れば英國製の二子縞等は日本着の上、日本

品と殆んど同價か或は少しく高價なれども元と器械にて大幅に織り之を中分したるものな

るが故に其幅日本の反物よりも廣く且つ幾回洗濯するも其色の變ぜざる丈けは英國品の方

德用なりと云へり左れば今後日英の間に一層貿易の繁盛する時もあらば外國綿織物の我國

に入りて今より一層我が同業者を窘むることゝもならんか扨て又毛絲織物業は近來漸く其

端緒を開かんとする由にして當初該業の發起者は毛絲の原料を濠洲邊に求め之を日本に廻

送して其紡績に從事するの心算なりしとの事なれども凡そ濠洲の毛市塲に於て原料の市塲

に現るゝは一年中自ら其季節あり此季節の來るときは英國其他の仲買商人、一時に之を買

占めて世界貿易の中心たる倫敦リヴアプールに廻送し一先づ此中心に集めて夫より世界各

地に散布するは從來商賣の實勢にして今日の有樣にては日本の毛絲紡績業者が年中工作す

可き程の原料を濠洲邊より直輸入するの便ありとも思はれず矢張り倫敦リヴアプール等貿

易の中心塲に注文して嵩張りたる未製品を日本に取寄せ然る上にて更に之を紡績するの手

順を踏まざる可らざるが故に手近く英國にて紡績したる輸入品と競爭するは是れ亦甚だ難

事なるが如し凡そ近來發起したる諸工業を解剖して其性質を吟味すれば此類極て多かる可

きが故に今輸入外國品と競爭して行く行く其鋒を挫かんとするには工業製作上に於て特に

日本に便利なる者なかる可らず日本資本金の利子は甚だ高く原料は物に因りて外國よりも

高く薪炭も亦格別に廉ならず唯爰に一箇條の便利とも申すは其勞役下直なるの一事あるの

み左れば日本に工業を起して外國品と競爭せんと欲せば先づ此勞役の下直を利用するの外

なかる可しと雖ども工業家に油斷多くして之を濫用することもあらば下直の勞役も亦决し

て恃むに足らず今米國の勞役は一人一日一弗にして英國にては五十仙、歐洲大陸諸國にて

は凡そ四十仙の割合にして歐洲役夫の賃錢は凡そ米國の半額なるが故に米國にては一弗の

手間賃を要する物品を歐洲にては四十仙乃至五十仙の手間賃にて製造し得る筈なれども事

の實際は然らずして或る物品製造の手間賃は米國も歐洲も殆んど同樣なりと云ふ盖し米國

は新建國にして勞役頗る高直なるが故に工業製造に從事する者は特に勞役の節儉を旨とし

客あり其製造塲を見物せんことを求むれば主人若くは書記等が自から出て案内役を勤め別

に體裁を飾らずして誠に簡單眞率なれども歐洲諸國の製造塲には門番あり受附あり小使給

仕の多きは勿論、工塲役夫の數の如きも其割合に多くして扨て出來上りたる製造品は米國

と同量なるが故に勞役手間賃は半額なるも役夫の數の夥多なると門番受附等を始め無用の

人を使役すると其雜費を合算すれば物品製造の勞役費は米國と匹敵するに至ると云ふ左れ

ば勞役下直なりとて成る可く之を節儉して其濫用を禁ぜざれば物品製造費に對して何の効

益をも爲さゞ可し特に我が日本にては古來人口の多くして其手間賃の下直なるに任せて之

を濫用するの習あり現に我が諸會社等を見れば米國などにて三四人を使ふ可き處に凡そ十

餘名の人を用ひ又或る商店等を見れば番頭小僧の多きを以て店の景氣附けと稱し生ける人

間を一種の裝飾品と爲す者さへある程の次第なれば製造塲等にても勞役の下直なるに任せ

て浮か浮か之を濫用するの恐なきにあらず且つ日本の役夫は手間賃の廉價なる代りに其腕

力は微弱にして仕事の分量より云へば一日一弗なる米國役夫の二分一若くは三分一にも過

ぎず尚ほ其上に時間の規律甚だ嚴ならずして煙草を吸ひながら業を執る等種々樣々の事情

あるが故に勞役は下直なりとて漫に之を恃む可らず斯る次第にて我が工業製造上に唯一の

便利を頼みたる勞役下直の効能を擧げて之を失ふこともあらば我が工業製造家は今後輸入

外國品に對して充分の競爭を試むることを得べきか我輩は工業家諸君が外に大敵あるを見

て如才なく油斷せざらんことを祈りて已まざるものなり