「汽車乘客の便利を謀る可し」
このページについて
時事新報に掲載された「汽車乘客の便利を謀る可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
汽車乘客の便利を謀る可し
隴を得て蜀を望むは世間普通の人情にして改良と云ひ進歩と云ふも皆な此人情の働より起
るものなるが故に文明交通の事業に從事する鐵道業者其人の如きは時勢事物の進歩に隨ひ
成る可く其業務上の改良を謀りて右の人情に稱はんとするの覺悟なかる可らず初め我が鐵
道の未だ延長せざるや遠近地方に旅行する者は先づ彼の人力車に由るの外なく蒸氣車なら
ば數時間にして達す可き處に一兩日の時間を空ふし亦隨て費用を要して不便利極りたるが
故に當時旅行の人々は此道筋に鐵道線を架し其徃復の便利をさへ得れば唯夫れ丈けにて大
願成就、他に所望なきが如くなりしが爾後七八年を經過して日本國中の鐵道も既に一千英
里餘に達し旅客の云々したる道筋にも一日幾回汽車を通じて之を曩昔に比するときは便利
極りて復た一言もなかる可き筈なれども望蜀心の増長は决して之れに滿足すること能はず
苦情はますます微細に入りて所望の箇條も煩苛に渉るは亦是非もなき次第にして現に斯く
申す我輩の如きも我が鐵道業者に對して聊か所望なきに非ず第一我が鐵道の乘車切符は通
常切符、徃復切符凡そ此邊の種類にして徃復切符も僅に二三日間に通用するに過ず京濱間
の如き坂神間の如き商用徃復の頻繁なる塲所にても未だ季節切符を發せず東海道鐵道は京
都に通じ東北鐵道は松嶋近傍を過ぐるの今日、彼の巡遊切符を發して遊覽客の便利を謀り
たることをも聞かず其他乘車切符に就ては不完全の箇條甚だ多く我輩も亦少しく卑見なき
に非ざれども是れは他日の談として扨て我が鐵道停車塲にポーター即ち携帯物世話方を置
かざるは或る乘客の身に取りて頗る不便ならざるを得ず凡そ西洋の停車塲には所謂ポータ
ーなるものあり旅客の馬車より下るを待ち受け若しも手荷物ありと見れば客の行く先きを
聞き質して夫れ夫れ其向きの列車に伴ひ切符上中下の等級に應じて成る可く便利なる座席
を撰み又手重き荷物あれば先づ乘車切符を買ひ荷物は小さき手車に載せて目方を量る處に
挽き行き上中下三種の等級に應じ其目方の内よりして無賃運送の定量を引き去り其殘餘の
目方に就き何程の運賃を拂ふ可きを决して之を荷物列車に積み込み凡そ此邊一切の手數、
乘客の手を煩はさずして之を辨じたる其時に十錢乃至十五錢、日本生計の度にて申せば凡
そ二三錢を與ふるのみ誠に輕便なりと云ふ可し然るに我が日本にては各地目抜きの停車塲
にても右のポーターなるものなく旅客は如何なる人物にても自から荷物を始末せざる可ら
ざるが故に田舎行の旅人、温泉遊の乘客その手荷物の多きものはワザワザ僕を停車塲に伴
ひ荷物の始末を手傳はするもあり或は年若き立派なる婦人が大きな風呂敷包みを抱へて脹
滿の姿を呈するもあり僅々二三錢をポーターに投じて此不便を救ふことを得ば乘客の便利
は如何なる可きや故に目抜きの停車塲にては身元の確かなる其道の者二三名乃至四五名に
限りて目に附き易き鑑札を與へ此鑑札を帶ぶる者は客の手荷物を携帶して隨時列車の側に
至り之を始末することを得せしめば乘客は荷物を持ち廻はるの苦なくポーターは乘客の心
附を得て鐵道會社には面倒なく一擧雙方の便利なる可し我輩の偏に所望する所なり扨て又
我國の停車塲にはクローク ルーム即ち臨時荷物預所と稱するものなし抑も此クローク
ルームと申すは乘客が或る停車塲にて次きの發車を待ち合はすか若くは近邊に所用ありて
停車塲外に出でんとするか其塲相は樣々なれども兎に角手荷物を持ち廻はりて不便勝ちな
る其時に此クローク ルームに至りて輕小の預け賃を投ずれば荷物を預かりて預かり證を
渡す斯くて數時若くは數日後、隨時此證を持參すれば其荷物を差戻すの法にして例へば江
ノ嶋鎌倉より東京へ向けて歸り掛け一寸橫濱に所用ありて之れに立ち寄る其際に手荷物一
切を携帯して頗る不便なりと思ふときは之を橫濱停車塲のクローク ルームに預け置きて
身輕く所用の處に至り扨て歸京車の出發前更にクローク ルームに至りて其手荷物を受取
れば誠に便利なることなる可し但し當初不慣の際は荷物預人少なくして當座勘定に合はざ
ることもあらんかなれども各鐵道會社にては其乘客に對するの義務として試に其端緒を開
き乘客のクローク ルームを知りて其便利を合點するの時を待つ可きのみ扨て又爰に一問
題と申すは鐵道保険の一事なり分明には記臆せざれども英國リヴアプールと倫敦との間凡
そ百六七十英里の處にて其鐵道保険料は百磅に就き凡そ二ペンスばかりにして乘車切符を
買ふときに右二ペンスばかりを出せば保険切符を賣渡し之を買ふ者多ければ自から勘定に
も合ふことなれども我國にては乘客も少なく今日只今端緒を開きてこの保険料を實行する
ことを得べきや是れは老經濟家の熟考に讓り兎に角我國の鐵道も追々延長するに隨ひ乘客
は鐵道敷設前の事を忘れ所謂得隴望蜀の情にて便利の上にも便利を求むるの趣きあるが故
に我が鐵道業者の方にても亦勉めて之に應じて荷物乘客の取扱上、便利の上にも便利を加
へ改良進歩に性急なる今の衆望に稱はんこと我輩の敢て勸告する所のものなり