「汽車は速なるを貴ぶ」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「汽車は速なるを貴ぶ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

汽車は速なるを貴ぶ

昨年四月中我鐵道局の調に依れば日本全國の鐵道線路は既成のもの九百十七哩餘、工事中

のもの五百五十三哩餘、測定濟のもの四百四十七哩餘にして合計千九百十七哩の由なりし

が工事中のものにして昨年中に落成したるものも多く又其後新たに出願して本假の免状を

得たる線路も少なからざれば是等を合算するときは既成の線路は千哩以上に達したる事な

らん顧みて我國に於ける鐵道發達の跡を見るに京、濱間及び西京、神戸間の官設鐵道は別

物として暫く之を擱き其後官民公私の間に於て敷設に着手したるは明治十五年に日本鐵道

會社が東北の線路工事に取掛りたるの外東海道の官線を始め其他の線路に至りては多くは

十九年もしくは二十年以降に着手したるものなるに僅々兩三年間にして斯る發達あらんと

は實に吾人の豫期せざる所にして其意外の進歩に驚かざるを得ざれども之は單に我國内に

於ける兩三年の有樣を見て驚くのみにして若しも之を西洋諸國の進歩に比すれば决して驚

くに足らず我輩は我國鐵道の今後の進歩も猶ほ今前の如くなるのみならず益々其發達の速

かならん事を希望するものなり抑も鐵道を目して文明の利器と稱する其利器の利なる點は

何れに在りやと云ふに唯速力の迅速なる一點に外ならず若し夫れ單に物を運搬するの用を

爲すものに至りては船舶なり荷車なり馬背なり人力なり何れも能く實用を達するものにし

て而も時と塲所とに依りては搭載運搬の便、却て汽車よりも大なることなきにあらず然る

に文明世界には鐵道の用、甚だ盛にして獨り利器の稱を擅にし舟車人馬をして殆んど顔色

なからしめたるものは唯その速力の一點に外ならざるのみ左れば方今西洋諸國にては文明

利器の利用上に單に線路の延長を以て足れりとせず其速力を増加するの工風專一にして軌

條の敷設方、汽鑵車の構造法、停車の時間等、專ら簡易輕便を旨とし改良進歩、日も亦足

らずして各國各地の線路、今は唯速力の遲速を競争するの勢なりと云ふ故に彼の國々にて

は既に尋常列車の發着に滿足せず急行列車の用、日に多くして其遲速多少を爭ふの景况は

左に掲ぐる比較表に由りて知る可し

歐洲諸國にて一日間に於ける急行列車の哩數と人口との割合        

國名    人口  急行列車哩數  急行列車速力      一日一哩に相當する人口

                    停車時間とも 停車時間を除き

英國     32,700,000 62,574 412/3 444/5 525

和蘭      4,390,000 8,000 321/2 35 50

白耳義 5,910,000 6,919 313/4 331/2 850

佛國 38,000,000 41,130 324/5 361/4 920

北獨逸 32,189,000 25,759 313/4 341/3 1,250

瑞西 2,906,000 2,285 242/5 26 1,270

南獨逸 11,713,000 9,085 51〓 33 1,290

愛蘭      4,800,000 2,818   33 35 1,700

丁抹 2,030,000 845 39 32 2,400

墺地利匈牙利 39,000,000 13,832 30 32 2,820

ルーマニヤ  5,000,000 1,207 291/4 32 4,500

伊太利 30,000,000 4,705 291/2 311/4 6,400

瑞典 4,644,000 632 29 311/2 7,350

歐洲露西亞 85,000,000 3,060 29 312/3 27,700

埃及 6,000,000 520 36 37 11,500

右は歐洲各國に就ての比較なれども米國に於ては一日間の平均哩數13,956 にして其速力

は停車時間ともに 412/5 なりと云ふ西洋諸國にては急行列車の用、甚だ盛にして而も其速

力の迅速なるを見る可し顧みて我國を見れば既成の鐵道線路は一千哩以上に達すと云ふと

雖も急行列車の度數は誠に僅少にして纔に京濱間及び東海道の官線路に限るのみならず而

も名は急行と稱するも其速力は二十哩以上に達するもの少なしと云ふ我輩は今その統計を

得るの便なきを以て精算を示すに由なしと雖も之を西洋諸國に比較するときは其哩數の云

ふに足らざるは勿論、速力さへも遙に及ばざること明白なり今夫れ鐵道の效力は唯速力の

一點に在りとして彼の速力は四十哩以上のものあるに我速力は其半にも及ぶ能はざるとき

は我一千哩の線路は僅に五百哩の功を爲すに過ぎざるのみ未だ利器の利用を盡したるもの

と云ふ可らざれば其局に當る者は線路の延長を謀ると同時に其速力の増加に注意すること

肝要なる可し彼の東海道の線路の如きは落成以來東西の行旅に非常の便利を與へたりと雖

も其速力の遲々たるは猶ほ我々の遺憾なき能はざる所なり函山の險の如きは車行極めて難

澁にして一日の行程中、その昇降の爲めに費す時間、割合に多しと云ふ即ち函山の險は速

力遲緩の原因たるものなれば斯る塲所には速に複線を設くるか又は他の方便を以て其障害

を除くの工風ある可し何れにしても今の日本鐵道の急務は速に諸種の障害を除き多く急行

列車を發して其速力の増加を謀るの注意に外ならざる可しと信ずるなり