「志士且つ切迫する事を休めよ」

last updated: 2019-11-24

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時事新報に掲載された「志士且つ切迫する事を休めよ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國會の開期も既に目前に迫りて所謂政黨員を始め各地方の有志家は何れも夫々議員撰擧の用意に忙はしき由なれば本年の政熱は非常の度に達せんこと今より豫め思ひやらるゝ所なり抑も代議政體の下には人民に政治思想の發達最も肝要にして假令へ國會開けて議員撰擧の事あるも人民たる者が毫も其利害を感ずることなくして冷眼これを看過するやうにては折角の政體も其功を見る可らず左れば當世の人々が國會の事に關心し撰擧の事に奔走するは即ち政治思想の盛なる兆候にして寧ろ喜ぶ可きの事相と云はざる可らず且つ既に代議の制を始むる以上は政黨の相分るゝは人事自然の勢にして黨派の既に相分るゝ以上は其間に爭を見る可きは是れ又勢の免れざる所にして毫も怪しむに足らず代議の政體既に其習慣を成したる西洋諸國に於てさへ政黨の爭は時として常經を外れて極端に奔ることもなきにあらず況して百事草創の日本社會に此事あるは敢て珍らしからぬ談にして若しも本年の初舞臺に奇相を現ずることもあらば我輩は咎を何人にも歸せず唯不慣の罪として之を看過せんと欲すれども尚ほ世間の有志者に向て聊か一言を呈する外ならず熟ら熟ら日本社會の風習を案ずるに封建制度の餘弊、只管政治を重大視して他に國事なきが如く慷慨憂國これを志士の本分と稱して亦疑ふものなし而して其國事なるものは如何なる事柄なりやと云ふに時の政治の得失又は政治當局者の進退などの類にして今日我輩の眼より見るときは國事中の一小部分に過ぎざれども志士の心中これを重んずること甚だしく時としては生命財産をも顧みざるものなきにあらず盖し封建の昔日に在りては政治は即ち國事にして施政の事も護國の事も明白なる區別なきより只管政治を重大視して之に熱したることならんなれども今の立國の有樣に於ては政治必ずしも唯一の國事ならず商賣なり殖産なり教育なり技術なり國の要素は種々にして政治の外にも猶ほ重大なる諸般の國事あるのみならず目下の事情より見れば却て政治よりも必要なるもの少からざれば志士たるものは寧ろ力を茲に盡さゞる可らざる筈なるに事の實際は則ち然らず顧ふに今の政治の事に熱心奔走する人々は何れも有爲活溌の士ならざるはなく隨て其氣風の社會に影響する事も少なからざれば時としては必至に盡力す可き塲合もあらんなれども今日の所謂國事は必ずしも危急變態のものにあらず唯文明政治の流儀に隨ひ代議の制度を行はんとするまでの事にして其事たる敢て重要ならざるにはあらざれども去ればとて全國の人民が社會一切の人事を打捨て生命財産を賭して爭ふ可き程の急變にもあらず寧ろ着實に事を謀りて穩に其始末を見るこそ國家の幸にして國民の義務にこそあれば世の志士たるものは眼前の事に切迫せず且つ其眼界を濶大にして審に社會の事情を察し徐ろに國の長計を講ずるの覺悟専一なる可し我輩は豫め本年政治界の多事を期し如何なる事相に遭遇するも敢て驚くことなかる可しと雖も唯彼の政治を以て唯一の國事となし之に奔走するを以て報国の本分と心得るに至りては其氣風の一般社會に影響する所少なからざれば國の長計の爲めに聊か世間の志士に一言するものなり