「利談」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「利談」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

利談

人民武を好めば其國強勇を以て稱せられ人民文を愛すれば其國温雅を以て自ら高し獨逸の

兵勢、仏蘭西の美術、英の貿易、米の自由等何れも其國人民に一種特色の好尚意志ありて

發して形に顯はれたるに外なかるべし葢し其長所の發達増進するは形に顯はれて美なりと

雖も之に反し土耳古の人心懶慢に傾いて爲めに官民腐敗の現象を呈し支那人の頑冥不靈に

して文明の遲々たるが如きは其短所の勢力を得て醜を形に顯はしたるものと云はざるを得

ず彼は由て以て國光民福に得これは則ち其反對に出づるの相違ありとすれば人心の趨く所

决して容易に看過す可らず經世の長計を思ふ者は常に其方向を察し其不利なるを見ては之

を遮斷せんとし其有益なるを見ては之を奨勵せんとして心に油斷あることなし我輩も亦竊

に關心して措かざる所なり

若し夫れ建國の歴史を説て愛国心を發揮せしむるが如きは何れの國も同樣にして其方法は

國脈と共に終始渝ることある可らずと雖も愛国の實を奏するの手段に至りては固より千差

萬別にして國々その取る所を一にせざるのみか時運の變遷によりて隨て趣向を殊にせざる

可らず之を事例に徴するに徃昔武門統一の時代に當りては凡そ武士たるものは名節を重ん

じて其身を潔くし變に臨んでは君の馬前に忠死するを以て唯一の心懸けとなせしことなれ

ども百姓町人に至ては自から其趣を殊にし專ら殖産の實利益を重んじて一國の富源と爲り

唯その心事の高尚ならざりしのみ即ち是れ種族に屬する運命にして武家は武家として其分

を守り農商は農商として其事を勉めたることなれども全國の運命一變することあれば國民

たる者は種族の如何に論なく其變遷に從て心事の方向を改めざる可らず即ち前に云へる如

く愛國の一心は國脈のあらん限り渝ることなしと雖も愛國の手段として心懸くべき要點に

至ては時運によりて方向を殊にす可しとは此事なり而して今の開國たる日本の時勢に會し

ては如何なる方向に心の舵を取るべきや、武家流を可とすべきや町人體を是とすべきや獨

人の性質を移すべきか英人の氣風に倣ふべきか將又我國今日の儘に一任するを得策とせん

かと問ふて之に答へんとするに當り先づ日本國勢の現状に就いて一顧せざる可らず申す迄

もなく我國は鎖國封建の境界を脱して萬國と交通を開き正に國の獨立を保ち民の利福を圖

るの最中にして其獨立利福は如何にして之を全ふすべきやと云へば金の働きに外ならず何

人も之を爭ふ者なかる可し條約改正の不滿足なるも内外利益の關係薄きが故なり陸海軍の

尚未だ伸張せざるも金なきが故なり自治制の基礎定まらざる所以、諸般の事業興らざる所

以、その他各種の苦情は何れも金の働の不充分なるに歸せざるはなし然らば則ち日本經國

の最大必要は利を起し金を造るの一點にして此一事の實蹟擧らざる限りは滿腔の妙案描き

來りて悉く空のみか却て不快不平の媒介たるべければ我が國民たるものは宜しく時勢の趨

く所を察し鎖国封建時代の心得を一變して正に今日の必要に應すべき方向を取り所謂「平

和の戰爭」に從事するの工風專要なるべし然るに翻て近來の形况を視察すれば世は政談の

眞最中にして始めは士族の一類が封建の慣習を遺傳し來り政府を中心として四方八方より

詰掛け押寄せ談論の聲頗ぶる喧しかりしが近來は其勢を農商の社會に及ぼし豪農富商の輩

もいつしか政談の面白きに魔せられて資金を散する者續々たるのみか其身も共に周旋奔走

に忙はしく全國一般に表面の現象は政談流行を以て著るしく内部の人心は理論權略を好む

の一方に僻し而して全體の結果は生産力の欠乏を來たさんとするに至れり是れ豈國勢の必

要に適應するの心得ならんや我輩は之を目して國光民福に反對なる短所の發達増進したる

ものと認め經世の長計に非ざるを憾むものなり

然りと雖も開國以前に産出したる老年の人々は我輩これに向て敢て將來の計を托せんとす

るの念なし今後の國本を定むるものは唯後進青年生の心懸如何にあることなれば彼の封建

の舊思想なる政治一方の狂熱を以て後進生の心身を薫陶せんとするは我輩の最も堪へ難き

所にして其状恰も今の昭代に切腹の法を教ゆるに異ならずとして堅く斥けて忌む所なれど

も實際の状況は全く我輩の所望に反對して青年親掛りの身に縁もなく痛痒も感ぜざる政治

の事件を念頭に懸け二人以上相集まれば談必らず政治を以て主眼となし恰も即身政治家と

なりて政變を喜憂するなど此勢を以て進むときは政談の火焔いつまでも獨り猛烈にして國

家獨立の基礎を固め人民幸福の泉源を開き目出度春を迎ふるの時節は所詮到來の見込ある

可らず之を聞く米國の少年輩は常に營利を心に懸け或は土地の賣買に成敗を試み或は農作

の豐凶を卜する等二人以上相集まれば談必らず營利を以て主眼となし昨日は某々の事をな

して幾干を儲けたり今日は何々に逢ふて失敗したり云々とて利談の外殆んど他念なきも

のゝ如しといふ日本の少年をして若しも米國少年の如くならしめ政談を變じて利談となす

ことを得ば我輩は百年の後に於て日本が富を以て自負すること猶ほ獨逸の兵勢を以て自負

し佛蘭西の美術を以て自負するが如くならんと竊に預期して疑はざるものなり思ふに後進

の輩は利の一字を見て慊しとせず何必日利の感あるべし我輩は决して思想の高尚なるを忌

む者に非ず唯利を營むは卑劣の業に非ずして高尚の思想と兩立して决して相撞着すること

なきを信ずるのみ昔し希臘の人民はアフロダイト女神を崇拝して美術に凝り遂に國の腐敗

を釀せり日本の人民は政府を羨望して政談に凝り遂に衰亡を招くことならば天下後世夫れ

これを何とか云はん左れば今日の急務は封建の武士が武士の心得を練磨したると均しく國

の富榮を目的とし舊來の農商は利を營むと同時に心事を高尚にして相共に勵み政談流行を

變じて利談流行となすの外なかるべし