「・公私交際の區別」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「・公私交際の區別」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・公私交際の區別

本年は國會開設の年にして近來全國各地方に議員撰擧談の盛なるに隨ひ政熱ますます上騰して各黨派間の交際に兔角滑かならざることあり演説場に腕力沙汰あり縣會議員の撰擧會に血塗れ騷動を引き起すが如き固より極端の事例なれとも之より以下の處にても公事と私交とを混同し政論政黨を異にするが爲め冠婚葬祭の應酬を絶ち路傍相逢うに眥睚をもってして鎭守の祭典、佛寺の修繕、縁談金策に至るまで丸く纏まらざるなどの場合も少なからず不心得なりと申す可し抑も彼の文明政黨の事は所謂君子の爭にして何れも國事を思ふ者が其奉公の智を鬪はして青天白日揖讓の間に勝敗を決するものなるが故に勝敗は其時限りにして其平生の交際上に於ては意趣もなければ怨みもなく共々自國の爲めを謀りて公事に盡力するものなりとて相敬し相愛するこそ當然なれ且つ我國の實際を見れば所謂凡俗社會に於ても此邊の嗜みを存するもの多く近くは過般回向院の角力を見よ東西の力士土俵に上りて互に勝敗を爭ふときは怒拳相撃ち堅頭相觸れ四十八手の祕術を盡して其死力を鬪はすれども勝負一決して土俵を下れば全刻の手際などを語り合ひ互に笑ふて相戲るゝを常とするに非ずや然るに今日の政論家は多くは舊藩士流の人にて往時封建藩制の際、藩中動もすれば朋黨を分ちて互に陰險の謀を廻らし小にしては刃傷暗殺、大にしては御家の騷動、毎度殺伐談を演するを見慣れ聞き慣れて今の所謂政黨も矢張り舊時の手段に因り陰險嫉惡相對して其間公私の區別を立てず一旦政治上の土俵に敵對すれば部屋内幕の交際も隨て難澁險阻を極め其胸中の狹隘にして公私を區分するの度量無きは角力に愧づること多しと云ふ可し我輩竊に按ずるに凡そ我國の士人輩は公事を視ること重きに過ぎて私交を視ること甚だ輕く苟も公事上に於て其位置を異にする等の場合あれば私交は忽ち疎隔して音問互に相通ぜず例へば同じく民間に在りて忘年莫逆の友たりし者若くは海外滯留の際に互に相助力して勉學を共にし遊觀を共にし連宵の旅宿に床を同ふしたる程の者も何れか其位置を變換して或は一朝官吏と爲るか或は商工業家と爲るか夫れ夫れ身分を異にすると同時に異論異業の益友を増して其智識見聞を開かんとはせずして十年の友を一日に忘れ互いに相疎隔するが如き世上其例に乏しからず斯くて互に疎隔して次第に其友誼を減じ遠方に在りて樣子を聞けば談笑の聲も怒音に聞え愛嬌の靨も血眼に見えて疑心に暗鬼を生ずるは今日官民の間柄などにて毎度見聞する所なれども此人々が度量を大にし公事上には反對に立ちても私交上には打ち解けて其胸筋を披くときは雙方の情實相通じて暗鬼の影も次第に消え政治上の爭などにも其面相を平和にして猜疑の念を絶つことならん抑も彼の英國政治家の美徳は其種類も一ならずして毎度我輩の感服する所なれども彼等が平素の交際上、事の公私を區別して綽然餘裕を存するは最も及ぶ可らざる所にして試に國會議員に入り其討論の樣子見れば兩黨面々相對して會釋もなく論難攻撃をなし其相激昂するに當りては殆んど鼻端火を出すの漑あれども此兩黨の人々が學問商賣美術等政治以外の集會場に招かれ椅子を竝べて相逢ふときは其私交の親疎に因り握手談笑して隔意することなく或は其謝辭演説の際、他黨の所長などを發揚して其畏敬心を表することあり或は政治外の倶樂部などにて自由黨の人が會長と爲り保守黨員が副會長と爲り一堂の上に集會して其勸遊を共にするが如き決して珍らしき事に非ず又兩黨派の新聞記者は紙上の筆戰激烈にして水火相容れざるが如くなれども扨て此記者等の集會する新聞倶樂部に至りて見れば今しも自から筆を執て痛撃を試みたる其當の新聞記者とカードを鬪はし球を突き肩を推して戲れながら一杯の酒を分飮して交態兄弟の如きものあり蓋し其心事を叩くときは新聞紙は公共に對するの事業にして各々固有の社論あるが故に其新聞紙に執筆する以上は其社論を論せざる可らず之を論ずるは新聞記者の公務、云はゞ一種の商法なりとて紙上の喧譁を私交に及ぼし之を云々する者を見ず現に倫敦に有名なるスタンダード新聞は保守黨第一の機關なりしが其主筆記者たりし者は先年まで過激急進論者にして日々紙上に掲ぐる議論と全く反對の意見を抱きたれどもスタンダード新聞は自から社有の論あるが故に苟も之れに從事する間は自身の正に思ふ所と恰も反對の説を記して之を公にしたりと云ふ是れは極端の事例にして然るを人々に期す可らずと雖ども英國人が心事を分ちて能く公私の區別を立て胸量闊大綽として餘裕を存するの状は此一端を推して知る可きなり左れば我輩は我國の士人が政治に熱中して之を論議し若くは其事に奔走するを見て之を悦ばざるに非ず政治は國事中の一箇條にして然かも重要なるものなれば政熱の上騰、黨派の競爭、固より其所たる可しと信ずれども唯此士人が政治の公と交際の私とを區別すると彼の英國人の如くし以て社會人情の圓滑平和を保たんこと切に願望する所なり