「 東京市區改正 」
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時事新報に掲載された「 東京市區改正 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
東京市區改正
東京市區改正費として年々五十萬圓を支出すべしとは今日までの定めなれども斯る少額を以て改正の大事業を成就せんとするときは猶ほ幾十年に亘るべきや誠に難儀の次第なり此間改正の線路に當る地所はいつか其沙汰あるべしとて空しく時の來るを見合せ現在自家の所有にして成規の租税を拂ひながら看す看す之に家屋を新築することも叶はずして獨り心苦しき其趣は見るも氣の毒の至りにして市民の迷惑容易ならずと云ふべし是れも巳むを得ざる公共の義理として暫く瞑目すべしとするも爰に一層直接の苦痛は地所ありと雖も金融の貸借上に抵當の川をなさゞること是なり凡そ商賣人の身上には殆んど一も不用に抛棄すべきものとてはなく地所なり家屋なり其他の財産なり何れも金融を助くるの媒介にして之を以て業務を整理完了するの常なれば屈竟の抵當物なる地所の如きは一日も之を見逃す可らず况んや五年をや十年をや際限なく之を閑却するは有れども無きに異ならず貴重の財産を半空に懸けて幾年の後を俟たしめ恰も倒懸の苦を與ふるとは誠に堪へ難き限りならずや且つ又東京は年々歳々に繁昌を加へて人口も亦隨て増殖し土地の直段はますます騰貴するの一方なれば今年五十萬圓にて半線路を改正し得るも翌年百萬圓に非ざれば同一の効を成すこと能はず三年四年次第次第に豫算に超越すれば次第次第に年限を延ばさゞるを得ずして三十年が五十年となり千五百萬圓が四千五百萬圓となるべし公私の不利益この上なければ何か適當の處置なかる可らずとて市區改正委員諸氏も大に苦慮して種々評議ありしといふ其一を聞くに一口は市の基本財産として政府より下渡したる河岸地十九萬坪を賣却して凡そ四百萬圓を得、又一口は六百萬圓の市債を募集し都合一千萬圓の資金を作り六百萬圓を以て水道を改築し四百萬圓を以て日本橋京橋その他既に着手せる本線の市區を改正すべしと云ふにあるよし蓋し水道改築は水税を以て負債償却の方に差向くべき豫算あるに由るものなりとぞ是れも至極尤もの考案なれども扨その後を計算するに市區改正費五十萬圓、水税凡そ四十萬圓合計九十萬圓を以て幾分を市債の償却に充て他の幾分を市區改正の繼續費用に充るとせば曩に四百萬圓を投じて改正したる本線以外の市區は徐々に歩を進められて隨分待遠き次第なるべし要するに改正事業に一鞭を加ふる迄のことにして未だ以て十分の望を滿足すべきにあらず故に我輩の考案を以てすれば河岸地賣却固より可なりと雖も爰に斷然たる處置を以て大に市債を募集し土地及び家屋を買上ぐるに付ても相當直段百圓のものならば更に奮發して百二三十圓にも買上げ一時に市區改正の完成を計るこそ然るべけれと信ずるなり一見大膽に過ぐるが如くなれども今日土地收用法などとて賣買雙方の相談兎角澁滯する所以は主として金の多寡によることなれば今若し相當直段に比して二三割の高價に買上げんと云はんか市民は何れも喜んで之を捧げ早く改正事業の自家に及ばざるを懶しとするに至るべし斯て償却の方法を如何と云ふに元來市區改正の事たる將來百年の計をなすものにて現在の市民の獨り專にする所にあらず子々孫々に傳へて永遠不朽の長策なれば負債を償却せんとて一時に取急ぐべき要用なく五十年にも百年にも分割して負擔を子孫に貽すも固より悔ゆる所に非ざるなり市區改正委員會に起りたりと聞ゆる前記の一説は頗ぶる當を得たるに似たれども四百萬圓を以て本線だけの改正を完了し爰に事業を中止して他は一切改正せずとの事ならば他の市民は其積りにて覺悟を定め安んじて業を營むことを得べければ我輩も敢て異議を挾まざるべしと雖も猶ほ其後に至り徐々に改正を繼續するとありては同じく是れ市民營業の安全を保つ所以にあらず鄙見の大主意實に此所にありて存することなれば委員諸氏にして若しも本線の改正のみを以て滿足すること能はざらん歟宜しく百年の市債を募りて即時に事業に着手せられよ萬一是れも非なり彼も非なりと云ふに至ては玆に唯一策あり市區改正を全く思ひ止まるべし我輩は市民の財産を有無の中に存して空しく疑惧煩悶せしめざらんことを祈るに外なきのみ